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竹久夢二 : ウィキペディア日本語版
竹久夢二[たけひさ ゆめじ]

竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、1884年明治17年)9月16日 - 1934年昭和9年)9月1日)は、日本画家詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。
数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。
彼自身の独特な美意識による「夢二式美人画」と呼ばれる作品の多くは、日本画の技法で描かれ(軸物屏風仕立てで遺る)、また、洋画キャンバス油彩)技法による女性像や風景画ものこされている。好んでさまざまな表現形式を試みたが、むしろ、それらは後世になってから評価されたもので、当時の時点においては、印刷された書籍の表紙や広告美術などが多くの目に触れ、大衆人気というかたちで脚光を浴びたのであった。一時は中央画壇への憧れもあったようだが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した。
世の動きとしてみた場合、当時の画壇ではさまざまな芸術思潮が交錯し、ある意味で胎動期の不定のさなかである。都市における大衆文化の開花による消費生活の拡大を背景とした、新しい応用美術としてのデザインというものの黎明の時代であり、夢二もこれに着目した。生涯の後期にいたっては、彼の図案家としての才能の実績において、生活と結びついた美術を目指し、あるいは産業と融合すべきとの理念を持ち、むしろ積極的に、商業美術(のちにいわれるグラフィック・デザイン)の概念を描いていたようである。榛名山産業美術研究所の構想や、先進欧米視察への野望がこのことを裏付けている。
画集・詩文集・童話は21世紀に入ってもさまざまな装丁で刊行されている。
== 経歴 ==

(年代の後は満年齢を示す)
;1884年(明治17年)0歳
:9月16日 岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)に代々酒造業を営む家に次男として生まれる。兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられる。
;1899年(明治32年)15歳
:神戸の叔父宅に寄宿、兵庫県神戸尋常中学校(後の神戸一中、現在の兵庫県立神戸高等学校)に入学するが、12月には家の都合で中退。
;1900年(明治33年)16歳
:父が家業の造り酒屋をたたみ、操業間近な八幡製鉄所に職を求めたため、一家で福岡県八幡村(現・北九州市八幡東区)枝光に転居。茂次郎もしばらく製鉄所で働く。
;1901年(明治34年)17歳
:家出して単身上京。
;1902年(明治35年)18歳
:早稲田実業学校専攻科入学。学生時代、スケッチを『読売新聞』などに投書。
;1903年(明治36年)19歳
:
;1904年(明治37年)20歳
:
;1905年(明治38年)21歳
:友人であった荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載される。これは最初に印刷に附された夢二の絵であった。この後、『光』、日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載し、社会主義者らとの親交も深めた。同年6月、『中学世界』に『筒井筒』が第一賞入選、このとき、初めて夢二を名乗る。早稲田実業学校専攻科中退。
;1906年(明治39年)22歳
:童話雑誌『少年文庫』の挿絵を描く。
;1907年(明治40年)23歳
:岸たまき結婚。読売新聞社に入社し時事スケッチを担当。
;1908年(明治41年)24歳
:長男・虹之助誕生。
;1909年(明治42年)25歳
:たまきと協議離婚。この年、最初の著書『夢二画集-春の巻』発刊、ベストセラーとなる。
;1910年(明治43年)26歳
:たまきと再び同棲し、その後、二児をもうける。大逆事件関与の容疑で2日間拘留される。夏、房総方面に旅行『宵待草』を発想。
;1911年(明治44年)27歳
:次男・不二彦誕生、たまきと別居。月刊『夢二 ヱハガキ』発売。
;1912年(明治45年)28歳
:雑誌『少女』誌上に、“さみせんぐさ”の筆名で『宵待草』原詩を発表。、京都府立図書館にて「第一回夢二作品展覧会」。
;1913年(大正2年)29歳
:11月 絵入り小唄集『どんたく』出版、その中の一節に『宵待草』を現在の三行詩で発表。
;1914年(大正3年)30歳
:日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店、来店した笠井彦乃と出会う。
;1915年(大正4年)31歳
:婦人之友社より雑誌『子供之友』、『新少女』創刊、絵画主任として挿絵を描き始める。たまきとは離別。
;1916年(大正5年)32歳
:2月、三男の草一が生まれる。セノオ楽譜『お江戸日本橋』の表紙画、以降270余点を作画する。東京を離れ、京都二寧坂に転居。草一、よそへやられる。
;1917年(大正6年)33歳
:高台寺近くに移り彦乃と同棲。金沢旅行中、「夢二抒情小品展覧会」を開く。
:『宵待草』に宮内省雅楽部のバイオリニスト多忠亮が曲をつけ、芸術座音楽会にて発表。
;1918年(大正7年)34歳
:『宵待草』セノオ楽譜から発刊、これを機に全国的なヒットとなる。長崎方面に旅行。彦乃入院、東京に戻る。
;1919年(大正8年)35歳
:寄宿先の本郷・菊富士ホテルにてモデルのお葉を紹介される。日本橋三越にて「女と子供に寄する展覧会」
;1920年(大正9年)36歳
:彦乃25歳で病没。『長崎十二景』、『女十題』のシリーズ制作。
;1921年(大正10年)37歳
:お葉(夢二が名付ける・本名は佐々木カ子ヨ)と渋谷に所帯を持つ(6年後には離別)。福島・会津を旅行、各地で展覧会。
;1922年(大正11年)38歳
:春、山形方面へ旅行、滞在。夏、不二彦と富士登山。
;1923年(大正12年)39歳
:恩地孝四郎らと「どんたく図案社」を発足するも、関東大震災(大正関東地震)で潰滅。友人で画家の有島生馬とともに震災後の東京を歩き、スケッチ21枚を「都新聞」に『東京災難画信』として寄稿連載。
;1924年(大正13年)40歳
:アトリエ兼自宅・少年山荘(山帰来荘)を東京府荏原郡松沢村松原(現・東京都世田谷区松原)に建設。この年に発刊された雑誌『婦人グラフ』に掲載するための表紙絵、口絵用に浮世絵の技法による新版画といわれる木版画「秋のしらべ」などを発表。
;1925年(大正14年)41歳
:作家・山田順子と交渉を持ち、お葉は去る。後、順子とも別れる。
;1926年(大正15年)42歳
:このころから、海外旅行を希求する。
;1927年(昭和2年)43歳
:『都新聞』に自伝絵画小説『出帆』を連載。
;1928年(昭和3年)44歳
:母・也須能、没(享年72)
;1929年(昭和4年)45歳
:
;1930年(昭和5年)46歳
:4月、群馬・伊香保温泉に約1ヶ月滞在、「榛名山美術研究所」の構想を練る。
;1931年(昭和6年)47歳
:父・菊蔵、没(享年79)。渡米告別展を新宿三越他で開催の後、5月7日横浜を出航し、ホノルルを経由して渡米。
;1932年(昭和7年)48歳
:前年より米国に1年3ヶ月の滞在、西海岸各地にて個展を開くが、米不況もあり受け入れられず不調。
:9月にパナマ運河-大西洋を経て渡欧。約1年の滞欧中、ドイツ・チェコ・オーストリア・フランス・スイスの諸都市を巡り、日本の雑誌に寄稿し、多くのスケッチ画を残す。
;1933年(昭和8年)49歳
:ベルリンに滞在の後、8月19日ナポリを発ち、9月18日、神戸に帰国する。10月26日、台湾を訪れ講演し、「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」を開催。11月11日、帰国、結核を患って病床につく。
;1934年年(昭和9年)50歳。実際には満49歳11ヶ月で逝去。
:1月19日、親しい文芸仲間でもあった正木不如丘院長の手配により、長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所(現・JA長野厚生連富士見高原病院)に入院。9月1日早暁、「ありがとう」の言葉を最後に死去。。有島生馬らにより9月19日東京・雑司ヶ谷霊園に埋葬される。戒名「竹久亭夢生楽園居士」。墓碑には有島生馬に依る揮毫「竹久夢二を埋む」と刻まれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「竹久夢二」の詳細全文を読む



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