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牧野忠恭 : ウィキペディア日本語版
牧野忠恭[まきのただしきょう]

牧野 忠恭(まきの ただゆき)は、越後長岡藩の第11代藩主。長岡藩系牧野家宗家12代。
== 生涯 ==
文政7年(1824年)9月1日、三河西尾藩主・松平乗寛の三男として江戸に生まれる。越後長岡藩の第10代藩主・牧野忠雅の養子となる。ちなみに次兄の牧野忠衛も三根山領主となっている。武鑑では嗣子時代の附役に小林親真(又兵衛、小林虎三郎の父)が一時期なっていたことが分かる。
天保11年(1840年)4月28日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下玄蕃頭に叙任する。安政5年(1858年)10月25日、養父忠雅の死去により、家督を継いで第11代藩主となる。
万延元年(1860年)6年25日奏者番文久2年(1862年)3月24日寺社奉行加役、同年8月24日京都所司代に就任する。京都所司代就任にともない、従四位下侍従に昇進する。文久3年(1863年)6月11日、「当時の京都は騒動続きであり、長岡藩のような小藩では対応できない」として辞職した。同年9月13日老中に就任し、12月24日外国事務を取り扱うことを命じられた。このとき、家臣・河井継之助を公用人として重用し、藩政改革を行う。元治元年(1864年)7月22日勝手用掛を命じられた。慶応元年(1865年)4月13日、政局に難題が積まれるに及んで老中職を退いた。京都所司代、老中の辞任はいずれも河井の進言によるものだった。
慶応3年(1867年)7月11日、隠居し、養子忠訓に家督を譲った。隠居後、雪堂と号した。北越戦争を経て謹慎し、明治に入ってから許される。明治8年(1875年)2月、四男忠毅の隠居により、家督を再び相続した。明治11年(1878年9月1日、55歳で死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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