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水野重仲 : ウィキペディア日本語版
水野重央[みずの しげなか]

水野 重央(みずの しげなか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名紀伊新宮藩紀州藩附家老)〔幕藩体制下では大名格の所領を有しながら陪臣として扱われ、明治維新までは大名とは見なされなかった。〕初代藩主。水野忠分の三男。官位従五位下対馬守〔官名としては他に出雲守が伝わるが、『寛政重修諸家譜』に叙任したことを示す記述はない。〕。は初め重信(しげのぶ)を名乗り、のち重央、次いで重仲(しげなか)に改めたとされる〔『寛政重修諸家譜』には「今の呈譜はじめ重信重央のち重仲にあらたむといふ」とある。〕。
== 生涯 ==
元亀元年(1570年)、水野忠分の三男として尾張国に生まれる。天正4年(1576年)、母方の従兄に当たる徳川家康に初めて謁見し、のち家康に近侍して5,500石を知行する。天正16年(1588年)に大番頭となり、天正20年(1592年)2月1日には武蔵国埼玉郡上総国山辺郡内に1,500石を加増される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは大番頭として従軍。慶長6年(1601年)5月11日、従五位下対馬守に叙任。慶長11年(1606年)、家康の十男・徳川頼宣の後見を家康から託され、慶長13年(1608年)に頼宣の家老となり、常陸国内に1万石を与えられた。幼少である頼宣に代わり、水戸藩では重央が国政に当たっている。慶長14年(1609年)、頼宣が駿河国駿府藩に転封されると、同年12月22日に重央は遠江国浜松城主となって2万5,000石を与えられた。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では初陣を飾った頼宣に従って天王寺付近に布陣し、翌慶長20年(1620年)の大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍した。元和3年(1617年)10月24日には駿河・遠江両国内に1万石を加増されている。
元和5年(1619年)、頼宣が紀州藩に移ると、重央は同年7月19日に紀伊国新宮に3万5,000石を与えられ、安藤直次と共に頼宣の附家老としてその補佐に務めた。しかし附家老という身分上、大名としての資格を失うことになった。
元和7年(1621年)11月12日に和歌山で死去。享年52。戒名は全龍院殿日山常春大居士。墓所は和歌山市直川の全正寺。長男の重良は附家老が陪臣として扱われることに不満を抱き、弟の定勝に新宮3万5,000石を継がせようとしたが、結局徳川秀忠家光の説得を受けて元和9年(1623年)に家督を継いでいる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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