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禰衡 : ウィキペディア日本語版
禰衡[でい こう]
禰 衡(でい こう、あるいは「ねい こう」とも、173年198年)は、中国後漢末期の人。正平青州平原郡般県(山東省楽陵市
の出身。
==経歴==
興平年間、荊州に避難した。建安年間の初め、遷都されたばかりのに上京した。しかし、才能を鼻にかけて傲慢な態度をとったうえ、他人の評価に対しては酷評を行なったため、人々から憎まれた。ただ、孔融だけは禰衡を高く評価し、曹操にも推薦していた。
三国志』の注『平原禰衡伝』・また『後漢書禰衡伝』によると、若い頃から並外れて恵まれた才能をもっていたが、それを鼻にかけて傲慢不遜な態度をとり、かつ奇矯な言動が多い上に、しかも桁外れで徹底していた。『後漢書』には、「少ク(わかく)シテ才弁アリ。才ヲ恃ミテ(たのみて)傲逸(ごういつ)ス。而シテ(じして)気尚剛傲(きしょうごうごう)ニシテ矯ヲ好ム。」とある。
196年、24歳の時に禰衡は許に来てから、名刺を持ったまま誰とも面会しようとしなかった。ある人が「なぜ陳長文(陳羣)や司馬伯達(司馬朗)のところへあいさつに行かないのか」と尋ねると「卿は豚殺しや酒売り(のような卑しい連中、の意)のところに私を行かせるつもりか」と断った。また「今の許で、一番ましなのは誰か」と訊かれると、「年長者では孔文挙(孔融)、年少者では楊徳祖(楊修)がいる」と答えた。さらに「曹公(曹操)・荀令君(荀彧)・趙盪寇(趙融)は皆、世に抜きん出た人物ではないか」と畳みかけられると、禰衡は「曹操はそんなに大した人物ではない」と答えた。さらに「文若(荀彧)は弔問に行くのが、稚長(趙融)は厨房で客を接待するのがお似合いだ」と言った。つまり、荀彧は見てくれだけだし、趙融は食いしん坊のデブだという意味である。人々はこれを聞いて切歯扼腕した。つまり人々の憎しみを買ったという。しかし、その言動のおかげか、禰衡は許で一躍名士となった。
孔融の推薦を受けても、禰衡は自分は発狂したと仕官を断ってしまった。しかし曹操は彼の才能を重んじていた上、孔融のべた褒めを聞かされていたので殺そうとはしなかった。
曹操は禰衡が太鼓を叩くのが上手いと聞き、演奏するように命じると、禰衡は応じた。禰衡は漁陽參撾という打法を披露し、見事な腕前で人々を感動させた。太鼓打ちには間違えると服を着替えるという規定があり、担当の役人が早速間違いを指摘すると、禰衡はその場で悠々素っ裸になって着替えて見せ、顔色一つ変えなかった。そのため曹操が「(禰)衡に恥をかかせようとしたのに、わしがかえって衡に恥をかかされた」と笑ったという逸話もある。
禰衡はその後、孔融の強い勧めで仕方なくもう一度曹操に面会したが、このときに曹操を怒らせてしまった。以下『後漢書』の話。
禰衡が来ると知った曹操は、門番に対し上機嫌で「客が来たらすぐ通せ」と伝え、禰衡の来訪を心待ちに待った。ところが禰衡は、粗末な服装に杖を持って曹操宅の門前まで来ると、どかりと腰を下ろし杖を叩きながら、曹操に対する悪口を並べ立てた。このため、門番が曹操のところにやってきて「気狂いが一人、門前で不届きな発言をしております。」と注進した。曹操はそれが禰衡だと分かるや否や、本気で腹を立て
「禰衡ハ豎子(じゅし、小僧という意味)ナリ。孤(われ)、コレヲ殺スハ、雀鼠ノ如キナルノミ。顧ミルニ、コノ人モトヨリ虚名アリ。遠近、孤、コレヲ容ルル能ワズト謂ワン(おもわん)トス。今、送リテ劉表ニ与エイカニスベキカヲ視ン。」
と言った。
つまり曹操は、禰衡には虚名があるから、殺せば度量のない人間と思われるだろうと考え、荊州の劉表の元へ体よく追い出したのである。後に孔融・楊修を殺した曹操も、この時ばかりは自らの手で殺すのを躊躇ったのである。

送別の宴では「禰衡はさんざん無礼な真似をしたから、(あいさつのために)やって来ても起きずに寝たふりをしてやろう」と皆で示し合わせた。禰衡はやって来るといきなり泣き出した。他の者から、なぜ泣くのかと聞かれると「座しているのは棺桶、伏しているのは屍だ。棺桶と屍の間を通るのだから、どうして悲しまずにいられようか」と、狸寝入りを皮肉って見せた。
劉表の元では文才を発揮し、また劉表に対しては下手に出た。しかし、その配下に対しては傲慢な態度をとったうえ、酷評を行なったため、劉表配下の面々からは恨まれた。このため、讒言により劉表の不興を買って遠ざけられた。また、魚豢が劉表〔『呉書』張昭伝注『典略』。筑摩書房版日本語訳では劉備と訳しているが、原文は「劉荊州」とあり、荊州牧であった劉表を指すと思われる。〕からかつて聞いた話として、劉表が孫策への手紙を書いて禰衡に見せたところ「これを孫策の部下たちに読ませるつもりですか、張子布(張昭)にでも見せるのですか」といい、一笑に付したという。
後に、劉表配下の黄祖の子黄射と友人になり、黄射の仲介で黄祖と出会った。黄祖は禰衡をはじめ高く評価したが、次第に禰衡が傲慢な態度をとるようになったため、遂に堪忍袋の緒が切れた。そのため部下に禰衡の処刑を命じ、その部下も禰衡を恨んでいたので、早速殺してしまった。禰衡は死の直前まで黄祖を罵り続けた。黄祖は禰衡を殺したことを後に悔いたという。
彼の死後、黄射は彼の遺体を鸚鵡洲という地(現湖北省武漢市)に埋葬した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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