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ディーウ沖の海戦 : ミニ英和和英辞書
ディーウ沖の海戦[でぃーうおきのかいせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おき]
 【名詞】 1. open sea 
海戦 : [かいせん]
 【名詞】 1. naval battle 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

ディーウ沖の海戦 : ウィキペディア日本語版
ディーウ沖の海戦[でぃーうおきのかいせん]

ディーウ沖海戦(第2次チャウルの戦い)は、1509年2月3日にインドのディーウ港の近くのアラビア海で、ポルトガル海上帝国と、オスマン帝国ヴェネツィア共和国ラグサ共和国ドゥブロヴニク)の支援を受けたグジャラート・スルターン朝マムルーク朝(ブルジー・マムルーク朝)、カリカットの領主との間で起こった海戦である〔Rogers, Clifford J. ''Readings on the Military Transformation of Early Modern Europe'', San Francisco:Westview Press, 1995, pp. 299–333 at Angelfire.com 〕。
この戦いにおけるポルトガルの勝利は大きな意味をもたらした。伝統的な紅海やペルシア湾を通る香辛料貿易路はアラブ人勢力とヴェネツィア共和国によって支配されていた。しかしマムルーク朝やアラブ勢力が後退することで、その伝統的な交易路を迂回してインド洋から喜望峰の航海路を支配しようとするポルトガルの戦略を容易にした。戦いの後、ポルトガルはゴア(ゴア州)、スリランカマラッカホルムズといったインド洋沿岸の重要な港を急速に占領していき、エジプトマムルーク朝グジャラート・スルターン朝を無力化して、ポルトガル海上帝国の発展をおおいに助けた。オランダ・ポルトガル戦争の間と1612年にスワリーの戦いイギリス東インド会社がポルトガルに勝利するまで、ポルトガルの貿易における優勢はほぼ一世紀にわたって維持され続けた。これはアジアにおける植民地主義の始まりとなった。また、キリスト教徒イスラム教徒の権力闘争が、当時最も国際交易で栄えた地域である地中海中東及びその周辺、インド洋内に広がったことを示している。
== 背景 ==
1498年にヴァスコ・ダ・ガマが到達して以来、ポルトガル人コーチン王国と同盟を結びそこに本拠地をたてるとともに、コーチとも対抗しているカリカットと戦ってきた。北部のグジャラート地方(主としてカンバート)はさらに重要性のある地域であった。グジャラート・スルターン朝紅海エジプトマラッカを結ぶ東西交易の必要不可欠な仲介者であった。グジャラート・スルターン朝はモルッカ諸島からの香辛料を中国からの絹織物と同様に取り寄せ、それをマムルーク朝やアラブ人に売却するという中継貿易地として重要な役割を担っていた〔Bailey, Diffie, "Foundations of the Portuguese Empire" , 1415–1580, University of Minnesota Press, 1977. ISBN 0-8166-0782-6〕。
1505年、ポルトガル王のマヌエル1世は、ポルトガル初となる副王フランシスコ・デ・アルメイダを東アフリカ及びインドでのポルトガル帝国の支配を確固たるするものにすべく21隻の大艦隊と共に送り込んだ。ポルトガルによる自分たちの領土への侵入に危惧したグジャラート・スルターン朝のスルターンマフムード・シャー1世カリカットの領主と同盟して、グジャラート・スルターン朝の交易のパートナーでもあるマムルーク朝に支援を求めた。
1507年アフォンソ・デ・アルブケルケ総督のもとでポルトガル軍は一ヶ月のうちに紅海ソコトラ島を、そして短期間のうちにペルシア湾ホルムズを占領した。こうしたポルトガルの進出はインド洋交易に深刻な混乱を招き、イスラーム勢力とヴェネツィア共和国はポルトガルがヨーロッパにおいてヴェネツィア人よりも安い価格で香辛料を売ることができてしまうことに脅威を抱いた。マムルーク朝と香辛料交易のヨーロッパでの相手であるヴェネツィアはインドからヨーロッパの香辛料の流れを独占することによって巨万の富を築いてきた。ヴェネツィア共和国はポルトガルとの外交関係を切り、マムルーク朝の宮廷に大使を送り込みインド洋におけるポルトガルの進出を防ぐ手段を模索し始めた〔''Foundations of the Portuguese empire, 1415–1580'' Bailey Wallys Diffie p.230-231''ff'' 〕。ヴェネツィアはマムルーク朝に対してポルトガルとの競争をやりやすくするために関税を低くするよう交渉を行い、ポルトガルに対抗するために早くかつ秘密裏な対策を行うことを提案した〔。カリカットの領主であるザモリンも大使を送りポルトガルに対抗するため救援を要請した〔。
エジプトのマムルーク朝の兵士は海戦の専門知識が欠如しており、ポルトガルは頻繁に攻撃をして、インドのマラバールの木材を奪っていたので、マムルーク朝のスルターンアシュラフ・カーンスーフ・ガウリーオスマン帝国に支援を求めた。オスマン帝国のスルターンバヤズィト2世(彼の海軍は1492年のスペイン異端審問によって追放されたスペイン系のムーア人やセファルディムによって作られた)はマムルーク朝に対して地中海型のギリシア人の漕ぎ手付きの戦闘用ガレー船と、大半がトルコ系の傭兵とフィリバスターによって構成されるオスマンの義勇軍を与えた〔Halil İnalcik, An economic and social history of the Ottoman Empire, Volume 1 , p.321, Cambridge University Press, 1997, ISBN 0-521-57456-0〕。これらの船はアレクサンドリアでヴェネツィアの造船技術によって分解されて、紅海側で再建築した。こうしたオスマン朝の船はインド洋での航海や海戦に耐えうるべきものであった。ガレー船の兵士は船首から船尾まで小型大砲をつけることができたが、漕ぎ手の邪魔になってしまうので船縁にはつけることができなかった。木の厚板を縫い込んである現地の船(ダウ船)は重い火器を運ぶことができなかった。従って、大半の同盟側の砲火器は弓矢であり、当然ポルトガル軍に対しては手も足もでなかった。
ポルトガルが "ルーム"〔Ozbaran, Salih, "Ottomans as 'Rumes' in Portuguese sources in the sixteenth century" , Portuguese Studies, Annual, 2001〕と呼んでいるマムルーク朝とオスマン帝国の海軍は、グジャラート・スルターン朝を支援する為に1507年に送られた。始めに、予測されるポルトガルからの攻撃に対するためにジッダを要塞化して、 紅海の先端のアデンを通り抜けて、そこでターヒル朝のスルターンからの支援を受けた。そしてその後1508年にカンバート湾の入り口の街であるディーウの港にまでインド洋を横切った〔Brummett, Palmira.''Ottoman Seapower and Levantine Diplomacy in the Age of Discovery'', , ニューヨーク, 1994, ISBN 0-7914-1701-8 , pp. 35, 171,22〕。
1508年3月、マムルーク朝の提督の命を受けて、マムルーク朝の艦隊はインドのに到達し、ポルトガル副王フランシスコ・デ・アルメイダの息子であるが率いるポルトガル艦隊を不意打ちした。グジャラート・スルターン朝の司令官であり、ディーウの支配者であるも加わり、彼らはポルトガルに対して3日間に及ぶ戦いを行い、勝利した。()マムルーク朝の艦隊はロレンゾ・デ・アルメイダの船を孤立させたが、他の船は逃がしてしまいディーウに9人の捕虜を連れ帰るにとどまった。『ミラット・カランダリ』はペルシア人によるグジャラート・スルターン朝の記録であり、この戦争を小規模な小競り合いとして詳述している〔Bayley, Edward C. ''The Local Muhammadan Dynasties: Gujarat'', London, 1886, 222〕。グジャラート軍は捕虜をとって、ディーウに向かった。ポルトガルの副王フランシスコ・デ・アルメイダは彼の息子の死に激怒し、復讐を求めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ディーウ沖の海戦」の詳細全文を読む




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