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黄現璠 : ミニ英和和英辞書
黄現璠[き]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [き]
 【名詞】 1. yellow 
: [げん]
  1. (pref) present 2. current

黄現璠 ( リダイレクト:黄現ハン ) : ウィキペディア日本語版
黄現ハン[こう げんはん]

黄 現璠(こう げんはん)は、中華民国中華人民共和国歴史学者民族学者。学問は史学民俗学人類学言語学文化学、チワン学と多岐に渡る。中国チワン族史学とチワン学の創立者、中国現代民族学研究の先駆者の1人とされ、中国チワン学の第一人者として知られ、八桂学派無奴学派の創始者。本名は甘錦英。チワン族出身。
== 略歴 ==
黄現璠は中国清朝南寧府新寧州六都渠思村(現在の広西チワン族自治区崇左市扶綏県渠旧鎮三合村渠思屯)の農民の家に生まれる。幼少時に家塾で学び、後に広西第三師範高等学校を経て、1926年民国15年)に国立北京師範大学に入学し、陳垣銭玄同などの史学、訓詁についての考証学を修め、1932年(民国21年)に極めて成績優秀で卒業後、大学院に入学した。大学院在学中の1932-35年に、北京師範大学研究所(のちの北京師範大学研究院)導師銭玄同の勧めにより、北京師範大学研究所に兼職し、史料編纂員となった。
1935年(民国24年)に、広西省の援助官費を得て、日本に渡り、東京帝国大学文学部大学院の東洋史学研究科に留学し、大学院では東洋史を専攻し、池内宏加藤繁和田清などの指導を受け、東京文献学派のメンバーとなった。〔 甘文傑「東洋史学と東京文献学派について」''东洋史学与“东京文献学派”初探'' 、2009年12月26日-中国知网(中国語)。〕留学期間に、日本学者白鳥庫吉津田左右吉原田淑人後藤朝太郎宮崎市定と中国学者郭沫若などの名人と知り合った。
1937年(民国26年)に盧溝橋事件で帰国、翌年に国立広西大学の招聘を受け、史学講師となり、中国通史を教え、1940年に助教授となり、中国上古史の講義を担当。1941年(民国30年)に広州の国立中山大学史学教授となり、中国史(後三代史)などの講義を担当した。1942年(民国31年)に国立桂林師範学院歴史地理学部教授となり、并せて広西教育研究所の研究員を兼任した。1943年(民国32年)に再度国立広西大学で教鞭を執り、主として西晋東晋)・南北朝時代史、五代十国時代史、中国文化史、中日文化交流史などの講義を担当し、并せて中国社会生活史、民俗学および少数民族の調査、資料蒐集と研究発表を行なった。後に、広西大学の训導長、中国語の学部主任、大学の図書館長などの職を兼任した。
1949年に中華人民共和国期に入って、1954年以後、黄現璠が広西師範学院(後に広西師範大学と改称)歴史地理学部教授となり、学院の図書館長を兼任し、長い間に、中国通史、先秦史(三代)、中国歴史文献などの講義を担当した。同時に、第1期全人代広西省代表、全人代民族委員会委員、中央対外文化連絡委員会委員、第1期中国人民対外文化協会(後に中国人民対外友好協会に改名)理事、〔第1期中国人民対外文化協会会長:楚図南、理事は茅盾曹禺老舎夏衍田漢丁西林郭沫若趙朴初馬寅初黄現璠馬思聡梅蘭芳焦菊隠周揚範長江銭偉長華羅庚などがいる。〕桂西チワン族自治区人民政府委員、広西省人民委員会委員などの職を務めた。
1957年7月に、黄現璠が青島で開催された「全国民族工作座談会」(この会議では、周恩来による基調講演で、会議に出席した105の代表がすべて全人代民族委員会のメンバーである)に出席した。反右派闘争期間の同年10月15日に、中国共産党中央は「右派分子を決める基準」通知を出し、1958年2月1日に、第1期全人代第5回の会議は、「費孝通黄現璠欧百川の全人代民族委員会委員職務を免し」という議会決議を作り出し、〔『人民日報』、1958年2月2日第1版。〕それによって、彼が中国歴史学界の1番で大きい右派分子とされ失脚し、広西師範学院図書館の管理員となった。まだ彼が文化大革命の期間にも、「資産階級反動学術権威」として糾弾され、紅衛兵の攻撃対象とされ、迫害を受けた。
1979年に、黄現璠が右派の名誉を回復され後、第5期中国人民政治協商会議全国委員会委員、第1期「中国民族学研究会」(後に中国民族学学会に改名)顧問、〔第1期「中国民族学研究会」の顧問は呉沢霖、黄現璠、李安宅、楊堃、呉文藻、劉咸、楊成志、方国瑜、江応梁、費孝通、李有義がいる――おのおの誕生によって年いずれ順調な位に並び。〕中国大百科全書・民族編集委員会委員、第1期「中国西南民族研究学会」顧問、第1-2期「中国百越民族史研究会」副会长を務めた。1981年に、桂林に民営「漓江大学」を創設し、校長を担当した。このために、黄現璠は中国教育界に中国現代的民間大学創設の先駆者のひとりと見なされた。1982年1月18日に脳溢血のため桂林の病院で死去。享年83。翌月に、黄現璠の葬儀が広西チワン族自治区政府によって、「広西人民公墓」で行われた。1999年11月に、広西師範大学は「黄現璠教授生誕百年記念座談会」を催し、会後に「黄現璠教授生誕百年記念文集」を出版した。現在には、広西師範大学で「黄現璠少数民族奨学金」を、桂林中学(高校)で「黄現璠奨学金」をそれぞれに設立した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Huang Xianfan 」があります。




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