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馮道 : ウィキペディア日本語版
馮道[ふう どう]
馮道(ふう どう、882年 - 954年)は、中国五代十国時代の政治家。五朝八姓十一君に仕えた。瀛州景城県来蘇里(河北省滄州市)の生まれ。は可道、は長楽。長楽郡の名族馮氏の末裔を称した。
== 生涯 ==
初めは劉守光に仕えていたが、朱全忠後梁の太祖)と李存勗の二大勢力の間で漁夫の利を得ようとして危険な軍事・外交政策を続ける主君に諫言し、幽閉される。後に李存勗が燕に攻め込むと、馮道は救出されて李存勗が建国した後唐に仕えるようになった。
しかし926年に李嗣源(後唐の明宗)が軍を向けると、李存勗は近衛兵に殺された。馮道は李嗣源に仕えたが、李嗣源は933年に病死する。その後、李従珂(末帝)によって馮道は左遷された。
後晋石敬瑭(高祖)は936年にに援軍を求め、耶律堯骨(遼の太宗)は大軍で後唐を滅亡させた。石敬瑭は契丹に臣従した。馮道は李従珂に左遷されていたことが幸いとなり、後晋の宰相になった。遼への使者として派遣された馮道は、耶律堯骨に気に入られて帰国する。しかし石敬瑭が942年に病死すると、馮道は左遷された。耶律堯骨は946年に開封を攻略し、後晋を滅ぼした。馮道は耶律堯骨と再会し、再び宰相となった。遼は中原を支配しようとしたが、蛮族を嫌った住民が各地で抵抗し、撤退せざるを得なくなった。馮道も同行するが、耶律堯骨は北へ引き返す途上で病死した。馮道は開封へ戻った。
劉知遠は947年に後漢を建て、開封へ入城したが、翌年に死去した。次男の劉承祐が後を継ぎ、有力者の粛清を図るが失敗する。粛清を逃れた郭威は951年に後周を建てて兵を挙げ、逆に開封を攻め落とし、誅殺を企んだ側近を殺した。馮道はまたもや宰相に返り咲いた。しかし954年に郭威は死去し、柴栄(後周の世宗)が即位した。同年に馮道は波乱の生涯を閉じた。
五代十国時代には皇帝・王朝が激しく入れ替わったが、その中で馮道は後梁を除いた五代王朝の全て(後唐後晋後漢後周)と、後晋を滅ぼして一時的に中原を支配した契丹族王朝のに仕え、常に高位にあった。馮道は仕えた主君を「五朝八姓十一君」と称している。
;五朝:後唐・後晋・遼・後漢・後周の5つの王朝。
;八姓:後唐の李存勗、その養子の李嗣源(本姓不詳)、そのまた養子の李従珂(本姓王氏)の3つの李氏、後晋の石氏、遼の耶律氏、後漢の劉氏、後周の郭威とその養子の柴栄の2氏の合計8つの姓。
;十一君:後唐4代、後晋2代、遼1代、後漢2代、後周2代の合計11人の皇帝。
宰相としての在任期間は20年に及ぶ。節度使出身である五代の武人皇帝や北方の遼の皇帝たちには、農民に対する哀れみの心が少なかったため、時に暴走する皇帝を諫め続け、時の民衆に敬仰された。一例を挙げれば、遼の耶律徳光開封に入った時に漢族を虐殺し、略奪を行いそうになったので、これを馮道は「今、仏陀がここに現れても民衆を救うことは出来ず、ただ皇帝である貴方だけが民衆を救うことが出来るのです。」と持ち上げて止めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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