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節度使 : ミニ英和和英辞書
節度使[せつど]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せつ, ぶし]
  1. (n-suf) tune 2. tone 3. knot 4. knob 5. point
節度 : [せつど]
 【名詞】 1. moderation 2. standard 
: [ど]
  1. (n,n-suf) (1) degree (angle, temperature, scale,  2. (2) counter for occurrences 3. times 4. (3) strength (of alcohol) 5. (4) (uk) (pref) very 6. totally 

節度使 ( リダイレクト:藩鎮 ) : ウィキペディア日本語版
藩鎮[はんちん]

藩鎮(はんちん)は中国から北宋代まで存在した地方組織の名称である。節度使観察使などを頂点とし、地方軍と地方財政を統括した。節度使そのものを指すことも多い。
==歴史==

===安史の乱まで===
唐は太宗の時代に大幅に領土を広げ、その領土を都護府羈縻政策府兵制鎮兵の制度をもって維持していた。鎮兵には蕃将蕃兵が多く用いられ、主に西北方面の辺境防衛のために置かれたが、玄宗時代になると、従来の府兵制が上手く行かなくなり、辺境以外にも藩鎮が設置された。
府兵制が行き詰まった背景としては、基になった北魏の兵制では兵の担い手が部族制の下で集団生活を行う牧畜民であったのに対して、唐の府兵制は定住して田を耕作する農民が兵を兼ねたため、年間3ヶ月の軍事訓練が与える農業への負担が大きく、また郷里と家族から離れて任務に就いたため士気が低く戦闘に弱かった点が挙げられる。また、辺境への赴任は白居易の『新豊折臂翁』〔兵役を逃れるために自らの臂を折った翁のことを謡っている〕に代表される兵役拒否も生み、負担に耐えかねて逃亡(逃戸)し本籍地を離れた土地で貴族に囲われ奴婢となる良民もいた。節度使は駐屯軍の将軍とその地方の財政官を兼ね、任地の税収を軍の糧秣と兵士の雇用に使う制度で、初めは異民族対策として西北方面を中心に10の節度使が設けられた。

710年の河西節度使の設置を初めとして10の節度使が設置された。駐屯する兵士は、徴兵制たる府兵制によって集められるのではなく、募兵制である長征健児制によった。兵士は辺境で屯田を行い、国家から給料として銅銭を支給された。
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節度使名治所設置目的設置年兵力
安西亀茲天山南路の防衛、西突厥710年24000
北庭庭州天山北路712年20000
河西涼州吐蕃と突厥の連携阻止710年73000
朔方霊州突厥721年64700
河東太原突厥711年55000
范陽幽州契丹713年91400
平盧営州室韋・靺鞨719年37500
隴右鄯州吐蕃713年75000
剣南成都吐蕃・吐谷渾714年30900
嶺南五府経略使広州夷獠711年15400

節度使は安西・北庭・平盧の長城外節度使とそれ以外の長城内節度使に分けられる。長城外節度使には武人や蕃将(異民族出身の将軍)が就けられ、長城内節度使には中央から派遣された文官が付くのが当初の方針であり、節度使は宰相へと登るためのエリートコースとされていた。しかし玄宗に重用された宰相李林甫は政敵の出現を恐れて、宰相になれない蕃将を積極的に節度使として登用した。安禄山も玄宗の寵愛を受け、742年に平盧節度使となり、更に范陽・河東を兼任した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jiedushi 」があります。




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