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須藤しげる : ミニ英和和英辞書
須藤しげる[すどう しげる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 

須藤しげる : ウィキペディア日本語版
須藤しげる[すどう しげる]
須藤しげる(すどう しげる、1898年(明治31年)9月17日 - 1946年(昭和21年)2月3日)は愛知県挙母町(現・豊田市)出身のイラストレーター。本名は須藤源重(げんじゅう)。須藤重名義でも作品を発表。大正から昭和にかけて多くの雑誌や絵本などに挿絵を描き、抒情画家として活躍した。
== 生涯 ==
彼の生家は代々、麩屋を営む商家だった。1904年(明治37年)4月 挙母町尋常小学校(現 挙母小学校)入学。大人しい少年で、友人と矢作川へ釣りに出かけたり、を運ぶ帆船を見に行ったりしていた。こういった彼の少年時代の資料はほとんど残っておらず、彼を直接知る人も今ではほとんどいない。今も、挙母小学校には彼が20歳の時、挙母に戻った際に描いた油絵が掛けられている。
14歳で上京すると、近くに住んでいた縁で、岸田劉生の手ほどきを受ける。初めは油絵に取り組んでいた。彼の書いた油絵作品である「須藤光子 像画」(1935年 作 豊田市郷土資料館 蔵)では、劉生の特徴である赤色が印象的に描かれており、劉生の影響を受けている。油絵は制作に費用がかかる為、10代後半になると日本画に転向。1916年(大正5年)に中村岳陵に師事。その後も生活は困窮し、生活費を稼ぐ為、雑誌の挿絵などを手がけるようになる。この時代は竹久夢二の全盛時代でもあった。彼は、夢二の大正ロマン画調を引き継ぎながらも、独自の絵の世界を築くようになる。少女倶楽部少女の友などの少女雑誌で活躍するほか、少年倶楽部令女界でも絵を発表する。戦前は西條八十の「天使の翼」や少女画報に連載された吉屋信子の「花物語」の雑誌イラストを描いて脚光を浴び人気を博した。雑誌の付録にも彼の絵が全面的に使われたこともある。抒情画家として名を馳せた彼は抒情画についてこのように考えていた。
つまり、彼の定義する抒情画は、「画家の感情を絵で表現したもの」であり、ただ、物語や詩の内容を説明する挿絵とは明らかに違うもの、と考えていた。抒情画を描くにあたり、彼が大切にしていたもの・・・それは「線」である。線こそが抒情画の最も必要な叙情的要素であり、線に対する感受性の敏感さが抒情画家の命とも言える、と語っている。叙情画家の中には、詩や小説などの文章作品を残した人もいるが、彼はあくまで「画家」として通し、絵を描くことに対しての情熱は生涯持ち続けた。
彼は昭和21年に亡くなった。享年48。彼が亡くなる数年前に残した日記の中で、胸が痛くなる病気に悩まされ死を非常に恐れていた事が記されている。
日記には他に「死ぬのはいやだ」「死にたくない」「死ぬもんか」「生きるのだ」「生きてゆくのだ」「もう少し生かして下さい」「神様にも切願する」など、これ程までに死を恐れたのは、後に残す家族があり、そして絵を描きたい、という気持ちがあったからであろう。どれほど胸が痛く、また、死の恐怖に怯えていても、絵に対する思いは熱く、画家であることの思いは、最後までかわらなかったのである。日記の最後には、「自分は絵かきである生き方を少しづつすゝめたい。」とある。彼が画家として抱いていた思いは、この言葉に集約されるのではないだろうか。また彼は叙情画のみならず、油絵、日本画、デッサンに及ぶまで、ジャンルを問わず真摯に絵に向かい、その存在を絵に刻んだ本物の画家である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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