翻訳と辞書
Words near each other
・ 阿多田島灯台資料館
・ 阿多由太神社
・ 阿多盛惇
・ 阿多盛淳
・ 阿多福
・ 阿多福豆
・ 阿多福面
・ 阿多福風邪
・ 阿多親市
・ 阿多郡
阿多長寿院
・ 阿多駅
・ 阿夜訶志古泥神
・ 阿夜詞志古泥神
・ 阿夢露
・ 阿夢露光大
・ 阿天坊俊明
・ 阿夫利神社
・ 阿夫利神社駅
・ 阿夫志奈神社


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

阿多長寿院 : ミニ英和和英辞書
阿多長寿院[いん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
  1. (n,pref) multi- 
: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
寿 : [ことぶき]
 【名詞】 1. congratulations! 2. long life! 

阿多長寿院 ( リダイレクト:長寿院盛淳 ) : ウィキペディア日本語版
長寿院盛淳[ちょうじゅいん もりあつ]

長寿院 盛淳(ちょうじゅいん もりあつ)は、戦国時代武将島津氏の家臣。
== 経歴 ==
蒲生地頭。大善坊。法名は一超日純。畠山氏の一族であり、室町幕府三管領の一つで守護大名・畠山氏の分家と主張する。「長寿院」は出家した後の名乗りであるがこちらの方が有名である。父は畠山頼国、子は畠山忠栄。のち忠栄は屋敷を阿多甚左衛門に譲与して出家したため阿多吉房と呼ばれ、以降子孫は阿多氏を称した。そのためか盛淳も阿多盛淳阿多長寿院と阿多姓で称されることが多い。
祖父の代に京都から薩摩に移ったと言われており、父頼国の意向により幼少の頃に大乗院へ仏門入りし、3歳から木食上人のいる高野山で修行し、11歳で根来寺に移り修行を重ねた。その後故郷に戻り安養院住持となり島津義久の奏者として仕え、島津氏の九州統一で活躍をみせる。その後豊臣秀吉の九州征伐で島津氏の旗色が悪くなると和睦を主張し、秀吉と義久の和睦を取り持ったと言われている。以後、石田三成の指揮下で、伊集院忠棟と共に中央政権との関係を深め、太閤検地の奉行なども担当している。ゆえに反秀吉の想いがまだ根強く残っていた国人層からは怨嗟の対象となっていたとされる。
義久が隠居した後は島津義弘に家老として仕えた。1600年関ヶ原の戦い本戦にも蒲生から士卒70名を率いて駆けつけ、義弘に従って参戦する。「島津義弘公記」には盛淳が到着したと聞くや義弘が手をとって出迎えた様が記されており義弘からの信頼が厚かったことがうかがえる。また、着陣の折義弘が秀吉から賜った白い鳳凰模様の陣羽織を盛淳に贈り、石田三成は軍配を贈ったといわれている。
盛淳が最も名を馳せたのは「鳥頭坂の退却戦」である。関ヶ原の戦いで西軍が総崩れとなり島津軍が敵中孤立した際、島津豊久の進言で義弘は数万の大軍を縫って敵中突破を敢行した。烏頭坂で討死にした豊久に続き、盛淳も先述の義弘から拝領した陣羽織と、三成から拝領した軍配を身につけ、義弘の影武者となり、自ら義弘の名を名乗って奮戦し、乱戦の末に家来18名と共に牧田上野で討死した〔楠戸義昭『戦国武将名言録』P159〕。享年53。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「長寿院盛淳」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.