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長禄合戦 : ミニ英和和英辞書
長禄合戦[ちょうろくかっせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [ごう]
 【名詞】 1. go (approx. 0.18l or 0.33m) 
合戦 : [かっせん]
 【名詞】 1. battle 2. engagement 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

長禄合戦 : ウィキペディア日本語版
長禄合戦[ちょうろくかっせん]

長禄合戦(ちょうろくかっせん)とは、長禄2年(1458年)7月頃から長禄3年(1459年8月11日までの間、越前を舞台として勃発した越前守護斯波義敏と越前守護代甲斐常治の間に勃発した合戦群の総称。
== 発端 ==
甲斐氏は代々斯波氏の執事と越前・遠江の守護代を受け継いだが、同時に足利将軍家の直臣扱いも受けていた。甲斐常治は斯波義淳の頃から斯波氏に仕えていたが、義淳が死んで後を継いだ異母弟の斯波義郷が事故死、幼い息子の斯波義健が後を継いだため、斯波氏庶流の大野斯波氏の斯波持種と共に後見人として政務を補佐した。しかし、持種はかつて父の斯波満種が守護だった加賀の奪回を図り常治と対立、常治の方も検断刈田狼藉使節遵行守護請など守護権を活用して寺社本所領荘園の支配権を拡大したり配下を荘園代官に任命したりして勢力を伸ばしたため、持種と常治の関係は険悪になり、享徳元年(1452年)に義健が子の無いまま亡くなり持種の息子義敏が本家の当主となると、義敏も常治と対立していった。
一方、室町幕府8代将軍足利義政は将軍専制を目論み、不知行地還付政策で寺社本所領の回復と守護と国人の繋がりの制限を図ったり、関東古河公方足利成氏征伐のため堀越公方足利政知を派遣、続いて斯波軍の関東出兵を計画していた。常治は将軍家と繋がっていたため、不知行地還付政策を支持していたが、この政策と常治によって所領と代官職を追われた越前国人は義敏と結びつき、義敏も常治の専横に反発していたため、康正2年(1456年)に幕府に常治を訴えたが、幕府は支持者の常治を敗訴にする訳にいかなかったため、義敏を敗訴とした。憤慨した義敏は長禄元年(1457年)に東山東光寺に出奔、義敏と常治の被官が騒乱を起こし、義敏の被官が幕府と甲斐氏の兵に討たれている。
長禄2年(1458年)2月に義政の仲介で和睦、常治側が義敏の被官に所領を返還することになったが、越前では返還は進まなかった。同年6月に義敏と常治に関東出兵の命令が下されたが、両者は互いを警戒して動かなかった。しかし、6月末に常治が病気に倒れたのをきっかけとして、7月頃に義敏は堀江利真を越前に派遣、合戦を引き起こした〔福井県、P459 - P464、P474 - P477、P597 - P600、松原、P38 - P41、石田、P98 - P102、P147 - P151。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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