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鄭振鐸 : ウィキペディア日本語版
鄭振鐸[てい しんたく]

鄭 振鐸(てい しんたく)は、中華民国中華人民共和国の作家・文学研究者・政治家で、中国民主促進会の発起人の一人である。 西諦。書斎には「玄覧堂」の号を用いた。筆名には、幽芳閣主紉秋館主紉秋幼舫友荒賓芬郭源新等の多くの筆名を用いた。祖籍は福建省福州府長楽県
== 生涯 ==

=== 五四運動・日中戦争での活動 ===
1917年民国6年)、北京鉄路管理学校に入学する。1919年(民国7年)の五四運動時期に、瞿秋白らと『新社会』の雑誌を創刊し、また茅盾(沈雁氷)らと民衆戯劇社を創設して月刊誌『戯劇』を創刊するなどして、新文化運動を唱導した。
1920年(民国9年)、鄭振鐸は茅盾、葉聖陶(葉紹鈞)らと共に発起人として文学研究会を結成し、『文学旬刊』を創刊した。翌1921年(民国10年)、鄭は鉄路管理学校を卒業し、茅盾の紹介で上海に移り商務印書館で文学研究叢書の編集を担当した。1922年(民国11年)、週刊誌『児童世界』を創刊し、その翌年には『小説月報』を創刊している。1925年(民国14年)9月、私立復旦大学講師となり、翌年には省立暨南大学講師となった。1927年(民国16年)3月、上海で作人公会を組織している。
上海クーデター(四・一二政変)後、政治的圧迫を受けた鄭振鐸は出国し、パリにしばらく在住した。1931年(民国20年)に帰国して国立清華大学教授となり、翌年、私立燕京大学教授に転じた。1933年(民国22年)からは、月刊誌『文学』と季刊誌『文学季刊』の編集に参加している。1934年(民国23年)、上海に戻り、暨南大学文学院院長となった。またこの時期には、生活書店の『世界文庫』の主編を務め、さらに魯迅との協力で『北平箋譜』を編集した。1936年(民国25年)6月には、葉聖陶らと共に発起人として中国文芸界協会を創設している。
日中戦争(抗日戦争)勃発後、鄭振鐸は中国文芸界救亡協会、中国文芸家協会、中華全国文芸抗敵総会等に属して抗日の言論を展開する。上海陥落後も鄭敬夫の偽名を用い、胡愈之らと復社を創設し、『魯迅全集』、『聯共党史』、『レーニン文選』などを刊行した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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