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鄭マン : ウィキペディア日本語版
鄭マン[てい まん]

鄭 鄤(てい まん、1594年9月22日(万暦22年8月9日) - 1639年9月23日(崇禎12年8月26日))は、末の作家。は謙止、は峚陽。
== 生涯 ==
江蘇常州の人。父は進士の鄭振先。母は大学士呉宗達の従姉。幼いころから聡明で、経史に通じた。一方、財貨に貪欲な好色者として名高い。
天啓2年(1622年)に科挙に合格して進士に及第し、庶吉士になった。その後、派閥争いに巻き込まれ、免職となった。崇禎元年(1628年)、復職した。
崇禎8年(1635年)10月、北京へ上ってすぐ、大学士温体仁(1637年免職、翌年病没)の怒りを買って、11月に(強引に?)「虐母罪」〔鄭鄤の供述では、母が父の側女を虐待したことを見て激怒し、母を殴打した。〕と「姦妹罪」〔鄭鄤は罪状を否認した。〕を暴露された。崇禎帝は大いに驚いた。鄭鄤は収監され、多数の東林党人らが許しを乞うた。刑部尚書の馮英はすぐさま「鄭鄤は女巫の嘘の名の下に、父に母を殴打するように迫った」などと報告した。崇禎帝はさらに、私情にとらわれて不正を疑った。崇禎10年(1637年)2月28日、鄭鄤は錦衣衛の監獄に移され、「姦嫁罪」(自身の次男の妻を犯す)〔鄭鄤の次男は韓鐘勛の娘と婚約した。崇禎7年(1634年)、韓鐘勛夫婦と息子はことごとく伝染病で死去した。鄭鄤はそれにつけこんで、彼女の老齢の祖父に強要し、彼女を韓家の家財と共に迎えた。しかし鄭鄤は姦通については否認した。〕の1項が罪状に追加された。崇禎12年(1639年)、死刑判決が宣告されたが、崇禎帝の指示により3600刀の凌遅刑〔罪状の真偽にかかわらず、明代には最も過酷な処刑方法であった。〕に処された。処刑中と処刑後、大勢の北京市民が見物し、鄭鄤の肉を拾い販売する業者もいた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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