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還住 : ウィキペディア日本語版
還住[かんじゅう]
還住(かんじゅう、げんじゅう)では〔小林(1980)によれば、噴火活動の激化によって八丈島へ避難した青ヶ島島民の青ヶ島帰還について、当時は「起返」ないし「開発」と呼んでいた。ここでは後述のように柳田國男の著作「青ヶ島還住記」以降、一般的に用いられるようになった還住を記事名とする。古くは「げんじゅう」と読むが、青ヶ島に関することでは「かんじゅう」と読まれることが多い。〕、伊豆諸島青ヶ島で、安永9年(1780年)に始まった噴火活動が天明5年(1785年)になって激しさを増したため、島民が八丈島に避難して無人島になった後、文政7年(1824年)の旧青ヶ島島民全員の帰還、そして島の復興を達成し、天保6年(1835年)に検地を受けるまでの経過について記述する。
== 噴火前の青ヶ島 ==

青ヶ島にいつ頃から人が住み始めたのか現在のところはっきりしていない。これは他の伊豆諸島の島々で発見されている縄文時代弥生時代の遺跡が全く発見されておらず、また中世の遺跡も見つかっていない上に文献資料も乏しいためである。15世紀になってようやく青ヶ島に人が居住しているとの記録が現れる〔小林(1980)pp.15-17、内田(1991)「平成3年度第二次調査・青ヶ島」pp.26-29、樋口(2010)p.328〕。
青ヶ島は絶海の孤島で周囲を黒潮が流れ、波が荒いことが多く青ヶ島への船の航行は困難を極めた。また島の周囲は約50-250メートルの海食崖が発達しており船の接岸も困難であった。15世紀の青ヶ島についての記録の多くは船の遭難に関することであり、この船の往来の困難さは現在に至るまで青ヶ島に住む人々を悩ませ続けている〔小林(1980)pp.15-18、内田(1991)「青ヶ島の歴史的地理的環境」p.7〕。
往来は困難を極めたが、青ヶ島での生活には利点もあった。これは八丈島、八丈小島と比べて食糧事情が良かったことである。八丈島や八丈小島は19世紀サツマイモの本格的な普及まで慢性的な食糧危機に見舞われていた。これは主に台風の襲来による風害によるものであり、ひとたび強い台風が八丈島や八丈小島を襲うと多くの作物に甚大な被害がもたらされ、餓死者が出ることも稀ではなかった〔小林(1980)pp.18-20、樋口(2010)p.328〕。
一方青ヶ島は大きな成層火山の山頂部が海面上に出ている地形をしており、島の南部には直径1.5-1.7キロメートルという成層火山の大きな火口にあたる池之沢がある〔池之沢の地形についてはカルデラとされることが多い。ここでは気象庁活火山情報:青ヶ島 の記述に従い火口とする。〕。池之沢にはかつて大池、小池という真水の池があり、土地も肥沃であった。何よりも大きな火口の内側となる池之沢は周囲の山によって強風が遮られるため作物の被害が少なかった。このような土地であるため、元禄13年(1700年) 11月には激しい飢饉に襲われ青ヶ島へ出発した八丈小島の住民24名全員が行方不明になるという事件も発生した〔小林(1980)pp.18-21、pp.42-45、樋口(2010)p.328、気象庁活火山情報:青ヶ島 〕。
しかし池之沢は成層火山の大きな火口内であり、承応元年(1652年)に池之沢内で噴煙が上がり、寛文10年(1670年)から約10年間、池の沢にあった池から細かい砂が約10年間に渡って噴出したとの記録が残されている。いずれの事件も小規模な異変であったと考えられ、青ヶ島の島民に大きな影響を与えることはなかった。 安永3年(1774年)の記録によると青ヶ島には流人1名を加えて328名の島民が、農業やカツオ漁などの漁業、そして年貢としての生糸を生産するための養蚕を営みながら生活していた。島内で農業や養蚕の最大の拠点は、土地が肥え真水の池があって風害から守られている池之沢であった〔小林(1980)pp.36-38、pp.74-76〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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