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足利満詮 : ミニ英和和英辞書
足利満詮[あしかが みつあきら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あし]
 【名詞】 1. foot 2. pace 3. gait 4. leg 
: [り]
 【名詞】 1. advantage 2. benefit 3. profit 4. interest 

足利満詮 : ウィキペディア日本語版
足利満詮[あしかが みつあきら]

足利 満詮(あしかが みつあきら)は南北朝時代から室町時代にかけての武将室町幕府第2代将軍・足利義詮の4男。母は紀良子。同第3代将軍・足利義満の同母弟にあたる。父・義詮と兄・義満より1字ずつ賜って満詮と名乗る。
== 生涯 ==
幕閣にあって常に兄を陰から支えるような立場であり、天授4年/永和4年(1378年)に義満が東寺に出陣した際には数百の兵を率いて参陣している〔 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.225〕。
生母の紀良子とともに武者小路の小川第に住み、応永9年(1402年)に従三位参議、応永10年(1403年)12月には従二位権大納言と順調な出世を遂げるが、12月7日に小川第にて義満自らの手による剃髪をもって出家し、法名を勝山道智と称した〔。
応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱の際は、ためらう甥の第4代将軍・義持に対し、早く鎌倉公方持氏を救援するよう進言している〔『看聞日記』同年10月29日条によると「武衛(持氏)は御烏帽子々たり、いかでか見放し申されべけんや、且つまた敵方鎌倉すでに一統の上は、京都へ謀叛を企てること測りがたきものか、そのためにも扶持申せらるべきの条しかるべきかの由」と意見を述べたという。〕。
応永25年(1418年)5月14日に病没し、等持院にて荼毘に付された。享年55。贈従一位左大臣、謚号は養徳院贈左府とされた〔 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.226〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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