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豊山広光 : ミニ英和和英辞書
豊山広光[ゆたかやま ひろみつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [ひかり]
 【名詞】 1. light 

豊山広光 : ウィキペディア日本語版
豊山広光[ゆたかやま ひろみつ]
豊山 広光(ゆたかやま ひろみつ、1947年10月22日 - )は、新潟県新発田市大字新保小路出身で、時津風部屋に所属した大相撲力士である。本名は長濱 廣光(ながはま ひろみつ)。現役時代の体格は186cm、133kg。得意手は右四つ、突っ張り、吊り、寄り。最高位は東小結1972年9月場所・1977年11月場所)。
現役引退後は年寄・湊を襲名して、湊部屋を創設し、その師匠を長く務めた。
== 来歴・人物 ==
実家は農家。幼い頃から相撲を始め、新発田農業高校では全国大会で優勝し「高校横綱」になるなど、活躍を見せた。
1966年春、高校卒業と同時に東京農業大学に進学。スポーツ特待生での入学を希望したが、当時学内の不祥事により同大学では特待生制度を認めていなかったため、一般の学生として入学した〔雑誌『相撲』2013年1月号「立田川親方(元小結・豊山)が停年」〕。そのため、家計が苦しく、大学の警備のアルバイトをして学費を稼ぎながら相撲部で活躍した。
大学4年時には、1学年先輩で既に日本大学を卒業して同大学農獣医学部の体育助手兼相撲部コーチとなっていた田中英寿全日本相撲選手権大会決勝で対戦して敗れ、惜しくもアマチュア横綱の座を逃している。
卒業後は教員になるつもりであったが、相撲部での実績が認められたことで時津風親方(元大関・豊山)に勧誘され、引退後に年寄株の手配をするという条件を提示されて時津風部屋に入門することを決意。1970年3月場所に於いて、幕下付出初土俵を踏んだ。
当初の四股名は、本名に由来した「長浜」。師匠である元・豊山時津風とは同郷で、出身高校も同じ新発田市内の公立高校〔新発田農業高校と新発田商工高校(当時)は、道を挟んで向かい同士である。〕、出身大学も同じ東京農業大であった。
同年9月、幕下付出から所要わずか3場所、幕下で2場所連続全勝優勝して十両に昇進。その後は1年ほど十両にあり、十両上位~中位で幾度か好成績を残すも番付運が悪く入幕の機会を逸し続けていたが、1971年11月場所で漸く入幕を果たした。
1972年、まだ「長浜」を名乗っていた頃に、暴力団組員が建てた貸しビルに花輪を出した件で協会が厳重注意を下す。〔『朝日新聞』、2010年5月27日掲載分〕そうした経緯を経て同年7月、験直しとして師匠で大学の先輩でもある時津風親方の現役時の四股名「豊山」に改名。
突き押しから右四つに組んで吊り寄りを見せる正攻法の相撲を得意としたが、不器用な面があり、特に土俵際に寄り立てた際に肩が使えず天井を向いて腹を突き出して決めに行くことから詰めが甘かった。それでも地力があったこともあり、長く幕内で活躍した。大学時代からのライバルであった横綱輪島日本大学卒業)との一番には特に激しい闘志を燃やし、金星4個を獲得(通算対戦成績は豊山の8勝12敗)するなど善戦。一方で横綱・北の湖には全く歯が立たず、幕内同士での対戦成績は21戦全敗を記録してしまった。また、当時の超人気力士だった大関・貴ノ花に対しても極端に合口が悪く22戦して僅か1勝に終わった。
幕内上位~中位では何度も勝ち越し、時には大勝ちもあったが、新入幕前の十両時代と同様番付運が悪く関脇への昇進は一度も叶わなかった。特に1974年5月場所では、前頭3枚目で11勝4敗と大きく勝ち越して関脇昇進の可能性も十分あったが、翌7月場所での地位は西小結と3枚しか番付が上がらなかった。
それでも、1977年9月場所では平幕勢で唯一の2桁勝利である10勝5敗と好成績を収めて敢闘賞を受賞するなど、長期に渡って腐らず奮戦を重ねていった。
現役晩年は十両で取り、東十両9枚目で5勝10敗と負け越し幕下陥落が濃厚となった1981年5月場所を以って、33歳で引退
場所直前の4月24日、高砂部屋系の親方であった湊親方(元十両8・大達)が死去して空き株ができていたこともあり、同場所後に彼が持っていた年寄名跡・湊を襲名した。
1982年12月、時津風部屋から独立して湊部屋を創設し、幕内・湊富士らを育てた。また、1988年から2004年まで実に15年以上もの間勝負審判を務めた。その後副理事に就任し、2010年までの任期を全うした。
停年(定年。以下同)退職を2年後に控えた2010年7月、引退して湊部屋付きの親方となっていた元・湊富士の立田川親方と名跡を交換し、年寄・立田川として2012年10月に停年退職した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「豊山広光」の詳細全文を読む




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