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藤堂平助 : ミニ英和和英辞書
藤堂平助[とうどう へいすけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [どう]
  1. (n,n-suf,n-pref) (1) temple 2. shrine 3. hall 4. (2) prefix to building meaning "magnificent" 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm
: [すけ]
 (n) assistance

藤堂平助 : ウィキペディア日本語版
藤堂平助[とうどう へいすけ]
藤堂 平助(とうどう へいすけ、弘化元年(1844年) - 慶応3年11月18日1867年12月13日))は、新選組隊士(八番隊組長)、のち御陵衛士(高台寺党)。は宜虎(たかとら)。
== 生涯 ==
弘化元年(1844年)、武蔵国江戸にて誕生。永倉新八の同志連名記や京都在留当時の風聞書によれば、伊勢津藩藤堂高猷落胤とも、伊勢久居藩家老藤堂八座の子との説もある。通称の「平助」は藤堂家功臣の名乗りを嗣いだものとも伝えられ、藤堂の佩刀「上総介兼重」が藤堂家お抱え刀工の作であったためである(会津藩庁新撰組御一行刀改控より)。「上総介兼重」は一介の素浪人が持てるような(安価な)刀ではないことを考えると、落胤の可能性は低くないとも考えられる。
北辰一刀流開祖・千葉周作の道場玄武館の門弟とされるが、加納鷲雄の証言では「伊東甲子太郎の伊東道場の寄り弟子」であったという。『新撰組顛末記』によると、近藤勇の道場試衛館以来の生え抜きで、新選組結成当時からの同志とされている。最年少幹部という説もある(斎藤一と同年生まれ)。池田屋事件では、最初に斬り込んだ4人の内の一人で、奮戦の結果、佩刀はぼろぼろになり、鍔元には修復不可能な程のひび割れを負った。油断して鉢金を取ったところを斬りつけられ額を負傷している。事件後、近藤勇・土方歳三に次ぐ褒賞金を江戸幕府から下賜されている(この金子をなかなか受け取らなかったという説がある)。また、元治元年(1864年)11月、新選組は江戸にて大規模な隊士募集を行ったが、藤堂はこれに先立って志願者を集るため江戸に下っている。9月初旬、藤堂が伊東大蔵(甲子太郎)の道場へ入隊の勧誘に来た、との加納の証言も残っている。
慶応3年(1867年)3月、伊東と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく新選組を離脱。慶応3年(1867年)11月18日、油小路で新選組に討たれる(油小路事件)。検死結果によると、額から鼻にかけての傷は長さ約21cm、深さ6cmに達してほぼ即死であったとされ、残りの同志を呼び出すため、遺体は2日ほどの間、野晒しにされたという。
なお、永倉新八の証言(『新撰組顛末記』)によれば、近藤から「藤堂だけは生かしておきたいものだな」と聞き、藤堂が逃げられるように道をあけたが、事情を知らぬ隊士三浦常三郎に斬られた。子母澤寛の『新選組始末記』によると、藤堂は永倉の深意はくみ取ったものの、魁先生と呼ばれたプライドと同志を見捨てられないので、新選組に立ち向かって三浦常三郎に斬られたとある。 また、永倉の深意を汲み取り退こうとしたところを、三浦常三郎に後ろから斬りつけられたため、藤堂は背後から斬られるのは武士の恥として応戦し、数々の傷を負い戦死したとする説もある。
墓は泉涌寺の塔頭戒光寺にあり、同志で同日共に討ち死にした伊東甲子太郎、毛内有之助服部武雄と同じ敷地内に埋葬されている。墓碑には享年24と記載されている。「益荒男の七世をかけて誓ひてし ことばたがはじ大君のため」が辞世といわれる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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