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美作宮川藩 : ミニ英和和英辞書
美作宮川藩[みまさか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 
: [さく]
  1. (n,n-suf) a work 2. a harvest 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [はん]
  1. (n,n-suf) fiefdom 2. domain (precursor to current prefectures) 

美作宮川藩 ( リダイレクト:津山藩 ) : ウィキペディア日本語版
津山藩[つやまはん]

津山藩(つやまはん)は、美作国の大半を領有した。藩庁は津山城岡山県津山市)に置かれた。
== 藩歴 ==
慶長5年(1600年関ヶ原の戦いの後、美作国備前岡山藩小早川秀秋の領有するところであった。慶長7年(1602年)、秀秋の無嗣子での死去により廃絶となる。
慶長8年(1603年)、信濃川中島藩より森可成の子忠政が美作一国18万6500石にて入封し、津山藩が立藩した。この地は従来、鶴山と呼ばれていたが、忠政により津山と改められた。翌慶長9年(1604年)より美作の府庁として津山城の築城に着手し、元和2年(1616年)に完成した。この間に津山の城下町も整備され、藩政の基礎が築かれた。
元禄10年(1697年)、4代長成が死去し、末期養子として2代長継の第24子で家臣となっていた関衆利が迎えられた。同年、衆利は継承挨拶のため江戸に出府途中に伊勢で発狂したため、幕府は美作津山藩を召し上げた。森氏は長継が健在であり、またその子も多数いたため 、長継が備中西江原藩(2万石)、長俊が播磨三日月藩(1万5000石)、関長治が備中新見藩(1万8000石)をそれぞれ立藩した。
元禄11年(1698年)、結城秀康を祖とする越前松平家分家松平宣富が10万石で入封、廃藩置県まで松平氏が治めるところとなった。享保6年(1721年)に家督を継いだ嗣子浅五郎が享保11年(1726年)に16歳にて嫡子なく死去したが、御家門であるため、などの理由で改易は免れ、宣富の弟で白河新田藩松平知清の三男の長熙(浅五郎からは従兄弟にあたる)を迎え、家督を相続させた。ただし、知行は半減の5万石となり、藩の格式も低下した。のち、8代藩主として11代将軍家斉の子の斉民を養子として迎える策により、石高を10万石に復帰させることに成功した。
松平氏の藩政時代は政情が不安定であった。入封の年には元禄一揆(高倉騒動)があり、享保11年には山中一揆(さんちゅういっき)、幕末には改政一揆と農民一揆が頻発した。当藩からは幕末から明治にかけて藩医であった宇田川家箕作家からは優れた洋学者を輩出し、日本の近代科学発展に寄与した。そして、津山藩士の津田真道皇紀という紀元を確立した。また、内閣総理大臣となった平沼騏一郎は津山藩の出身である。
明治4年(1871年)廃藩置県により津山県となる。北条県を経て岡山県に編入された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tsuyama Domain 」があります。




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