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第一次五ヶ年計画 : ミニ英和和英辞書
第一次五ヶ年計画[だいいちじ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
第一 : [だいいち]
  1. (adv,n) first 2. foremost 3. # 1 
第一次 : [だいいちじ]
 【名詞】 1. the first .. 2. primary
: [いち]
  1. (num) one 
一次 : [いちじ]
  1. (adj-na,n) first 2. primary 3. linear (equation) 4. first-order
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 
: [ご]
  1. (num) five 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 
: [けい]
  1. (n,n-suf) plan 
計画 : [けいかく]
  1. (n,vs) plan 2. project 3. schedule 4. scheme 5. program 6. programme 
: [かく, が]
 【名詞】 1. stroke 

第一次五ヶ年計画 ( リダイレクト:第一次五カ年計画 ) : ウィキペディア日本語版
第一次五カ年計画[だいいちじごかねんけいかく]
第一次五カ年計画(だいいちじごかねんけいかく)とは、さまざまな国家や団体で作成される複数年次かつ継続的な長期計画のうち、5年間を区切りとして行われる最初の五カ年計画の事である。なお、「五カ年計画」は、「5か年計画」や「五か年計画」と表記されることもある〔『中学社会 歴史』(教育出版株式会社。文部省検定済教科書。中学校 社会科用。平成8年2月29日文部省検定済。平成10年1月10日印刷。平成10年1月20日発行。教科書番号 17 教出・歴史 762)p 245の本文には「ソ連では, レーニンの死後, スターリンの指導のもとに, 1928年から5か年計画を実行し」と書かれていて、『新しい社会 歴史』(東京書籍株式会社文部科学省検定済教科書。中学校 社会科用。平成13年3月30日検定済。平成16年2月1日印刷。平成16年2月10日発行。教科書番号 2 東書 歴史 702)p 164の本文には「ソ連は, スターリンを指導者として共産党の独裁体制をしき, 1928年から「5か年計画」をかかげて」と書かれていて、『社会科 中学生の歴史』(株式会社 帝国書院文部科学省検定済教科書。中学校 社会科用。平成17年3月30日文部科学省検定済。平成20年1月10日印刷。平成20年1月20日発行。教科書番号 46 帝国 歴史-713)p 201の「⑥ 世界恐慌と各国の動き」には「ソ連 五か年計画」と書かれている。〕。
== ソ連の第一次五カ年計画 ==
ただし、この言葉は前提無しで、しばしば1928年ソビエト連邦ヨシフ・スターリン政権が作成、ゴエルロ・プランを巨大化させた同国最初の五カ年計画を指して使われる事がある。本稿ではこれについて説明を加える。ロシアの歴史ソビエト連邦の経済#第一次五カ年計画も参照。
1921年ネップ採用以後、ロシア革命と内戦の混乱で疲弊したソビエト連邦の経済はようやく立ち直った。しかし、営業を認められた都市部の小規模商工業者(ネップマン)や農村の自営農民(クラーク)が力を蓄えると、貧富の差の解消や労働者階級による国家統治という、社会主義の基本理念との矛盾が発生した。
これを解消し、ソビエト連邦共産党による強力な国家支配を可能にしようと、スターリニズムで西側陣営にハイペースで追いつこうと新経済政策(ネップ)に否定的見解を示すスターリンは1928年にニコライ・コンドラチエフら党内の反対派を押し切り、この第一次五カ年計画を発表した。こうして1930年代、ソ連は隔絶した経済圏を持つことで順調に重工業を発展させていくとともに、ソ連型社会主義として再び強硬な社会主義化路線に戻る。

ここで主張されたのは工業化による強力な国家統制・一党独裁体制を固めた共産党の指導による総合経済政策であり、ソ連を重工業重視・生活必需品生産軽視の工業化によって重工業に大きく偏った国とすること、コルホーズ(集団農場)の建設による農業集団化の強行、ソ連全土における電化(電力網の整備)などが含まれていた。施策は直ちに実行に移され、クラークなどに多くの犠牲者を出しながらも強引な近代化と工業化が進められた。特に五カ年計画で推し進められた農業の集団化で、ウクライナ社会主義ソビエト共和国が重点地域となっていた。
さらに、1932年からはこれを引き継ぐ第二次五カ年計画が発表され、1937年まで実施された。1933年には、ロシア北方の白海バルト海を結び、軍事的にも重要な意味を持つ白海・バルト海運河が開通した。これは第一次五ヶ年計画の主要プロジェクトの一つであり、強制労働で大量の犠牲者を出しながらわずか2年の工期で作られた。他の大規模公共事業も、恐怖政治の犠牲になったおびただしい数の無実の囚人の命と引き換えに完成していった。第一次五カ年計画の強行に伴い罪人者の監房はすし詰めで、勝野金政なども収監の憂き目に会っている。
マナープなどの遊牧民定住化政策が大々的に展開され、キルギス、そして中央アジア全体において遊牧部落は消滅していった。
海軍艦艇整備計画も第一次五ヶ年計画の一環であり、これに基づいてレニングラード級駆逐艦や、このほかT-35重戦車T-43 (戦車・水陸両用)を開発。機甲師団の強化を図る。
ロシア革命とその後の混乱により弱体化していたソビエト連邦であったが、1930年代中盤頃までに第1次及び第2次五カ年計画を経て急速にその国力を回復。またソ連は着実に赤軍の極東軍管区の増強を継続。計画によりまた赤軍の機械化が実現する中で、縦深攻撃の戦略理論も完成されていった。
アエロフロート・ロシア航空は第一次五カ年計画によってウクライナ航空会社とドブロリョートが集約したもの。地上設備の整備を訴え、その後の五カ年計画で空港の整備などが政策に盛り込まれる。企業の再国有化グム百貨店GUMは独裁体制の下での第一次五カ年計画開始からGUM内の全ての店舗が国営に接収。ロモも第一次五カ年計画に伴う企業再編で会社の名称が変わる。
その結果、ソ連政府の公式発表によると、鋳鉄生産高が1928年の330万トンから1932年には620万トン(第二次五ヶ年計画最終年の1937年には1450万トン)、発電量が1928年の500万キロワットから1932年に1350万キロワット(1937年には3620万キロワット)など、重工業部門で大きく生産量を伸ばした。ソ連国外での研究によると、この10年間における各数値の増加率は、ソ連の国内総生産が年率4.6%、鉱工業生産が年率10.5-16%(10年間で2.5-3.5倍)、機械工場数が年率27.4%という数字が提示されている。
重工業に傾斜した産業政策はノヴォシビルスクといった重工業都市・工業センターとなる計画都市も生み出され、重工業化によってウファでは自動車工場など作られ、トルキスタン・シベリア鉄道も残っていた1,442kmの全線が第一次五ヶ年計画の期間中の1930年に完成。ギドロプロエクト1930年設立され第一次五ヶ年計画における水力発電用ダム建設を企画・調整した。
この成功により、ソ連は後にソ連型社会主義と呼ばれる独自の社会体制を建設した。以後もゴスプラン(国家計画委員会)による長期経済政策の策定や国家の各機関による実行が行われた。
また、国家による長期経済計画の策定とその実行はソ連以外の資本主義諸国に驚愕をもたらした。
アイザック・ドイッチャー1931年に第一次五ヶ年計画の最中にあったソ連を訪問、経済状況などを視察する。ソ連の計画経済の成功は、政府が積極的に経済政策へ介入するケインズ経済学の登場やニューディール政策の提起につながっていった。第一次五カ年計画によって世界恐慌とは無縁の関係となった。ミハイル・イリーンはソ連の体制との折り合いは良く、第一次五ヶ年計画を肯定的に扱った著書などがある。
チェルカースィは第一次五カ年計画により特に食品産業と軽工業に力が入れられ、1950年代末からも、化学産業が発展しその州都となっていく。
その一方、第一次五カ年計画はロシア・アヴァンギャルドなど文化面では抑圧される。ツェントロソユーズの建設計画でも第一次五カ年計画に起因する材料不足に直面。華々しい展開を見せていた建築は一転政治的に排除の対象とされ、それまでの建築家の場合は、演劇のメイエルホリドのように銃殺されたり、詩人のマヤコフスキーのように自殺等の手段ではなく、緩やかに排除がなされていった。大会議場を連邦国家の威信をかけ第一次五カ年計画の締めくくりとして行われたソビエト・パレスの建築コンペティションはデコレーションケーキを派手に巨大化したようなデザインであったし、ロシア・アヴァンギャルドはロシアのクラシック音楽史にあっても、第一次五カ年計画の執行へと社会情勢が急速に変化する中では次第に抑圧され、ついには歴史から抹殺されるにいたる。
戦前期日本で制定した電力国家管理法などは、ソビエト連邦の第一次五カ年計画の模倣である。満州国などでも産業開発五カ年計画などを採用している(満州国の経済を参照)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「第一次五カ年計画」の詳細全文を読む




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