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立石寺 : ミニ英和和英辞書
立石寺[りっしゃくじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こく, いし]
 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 

立石寺 : ウィキペディア日本語版
立石寺[りっしゃくじ]

立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある天台宗寺院。山号は宝珠山。本尊は薬師如来。山寺(やまでら)の通称で知られ、古くは「りゅうしゃくじ〔歴史的仮名遣では「りふしやくじ」。〕」と称した。。
蔵王国定公園(第2種特別地域)に指定されていて〔自然公園・自然環境保全地域等索引図(21山形) (宮城県「自然公園等区域閲覧サービス 」)〕、平泉中尊寺毛越寺、松島瑞巌寺とともに「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。
== 歴史 ==

=== 創建 ===
立石寺の創建について、寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされている。当寺の創建が平安時代初期(9世紀)にさかのぼることと、円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらにさかのぼるものと推定される。『立石寺記録』(立石寺文書のうち)は、「開山」を円仁、「開祖」を安慧(あんね)と位置づけており、子院の安養院は心能が、千手院と山王院は実玄が開いたとされている。安慧は円仁の跡を継いで天台座主となった僧であり、心能と実玄は円仁の東国巡錫に同行した弟子である。安慧は承和11年(844年)から嘉承2年(849年)まで出羽国の講師の任にあり、東国に天台宗を広める役割をしたことから、立石寺の実質的な創立者は安慧であるとする説もある。また、円仁が実際に東国巡錫したのは天長6年(829年)から9年(832年)のこととされ、この際、弟子の心能と実玄をこの地に留め置いて立石寺の開創にあたらせたとの解釈もある〔『日本歴史地名大系 山形県の地名』〕。立石寺には貞観2年(860年)12月の日付をもつ『円仁置文写』が伝わるが、この文書は必ずしも寺の創建年次を示すものではなく、この文書自体が後世の仮託とする説もある〔外部リンク山寺の歴史 を参照。〕。貞観2年(860年)には、円仁は当時としては高齢の60歳代で、しかも天台座主の高位にあった。したがって、この時期に円仁が実際に今の山形県に出向いて立石寺を建立したということは、年齢と地位の両面から、文字通りの史実とは考えがたく、円仁の意を受けた安慧らによって9世紀半ば頃から徐々に寺観が整えられたとみるのが穏当である〔田中日佐夫『仏像のある風景』、駸々堂、平成元年(1989年)、pp221 - 225、参照〕。
なお、根本中堂に安置されている木造毘沙門天立像は近年の調査によって9世紀頃の作であることが判明しており、円仁とみられる頭部のみの木彫像と同様、立石寺創建期の一例に加えられる。また、胸甲の上で甲締めの結び目を表していることや細い腰帯の下に幅広の腰帯を着けるなど珍しい甲制となっているが、これらは東北地方の神将形の作例にしか見られないもので、平安時代には同種の作例がある寺院との間に繋がりがあったことを示唆させる特徴を持つ点でも注目に値する〔 『山形市内仏像調査報告書(追補版)』、山形市教育委員会・東北芸術工科大学文化財保存修復センター、平成21年(2009年)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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