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立浪和義 : ミニ英和和英辞書
立浪和義[たつなみ かずよし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 

立浪和義 : ウィキペディア日本語版
立浪和義[たつなみ かずよし]

立浪 和義(たつなみ かずよし、1969年8月19日 - )は、大阪府吹田市出身の元プロ野球選手内野手外野手)。愛称は「タツ」〔『中日新聞』2003年7月6日朝刊30面にて、恩師である中村順司のインタビュー「PL学園高時代の恩師 中村順司監督も祝福 - 大記録呼んだタツの気配り」より。〕。
現在は日本テレビ(日テレ)所属の野球解説者立浪和義|日本テレビ プロ野球中継 Dramatic Game 1844|日テレオンデマンド - 2015年12月5日閲覧〕、および中日スポーツ東京中日スポーツ野球評論家
通算二塁打数のNPB記録保持者〔歴代最高記録 二塁打 【通算記録】 - 日本野球機構オフィシャルサイト 2015年3月14日閲覧。〕。
== 経歴 ==

=== プロ入り前 ===
1969年8月19日大阪府吹田市で生まれる。本来は右打ちだが、幼いころ父親によって左打ちにされたという。王貞治に憧れ、小学校4年生から茨木ナニワボーイズに加入し野球に打ち込んだ。この時は五厘刈りをためらい入団を決意できずにいたが、母親から「ボーイズに入るなら(嫌いな)算盤はやめてもいい」と言われ、どちらを取るか考えた末に野球を選んだという〔『負けん気』文芸社、2010年、68‐69頁〕。
摂津市立鳥飼小学校〔2年生の時に両親が離婚。立浪はこれ以降、母親の元で2歳年上の兄とともに育てられていた。母は自宅で化粧品店を営んでおり、閉店後もしばしば配達に出かけるなど忙しい毎日を送っていたため、野球を始めてからもほとんど見に行くことができず、第59回選抜甲子園大会においても決勝戦しか見に行くことができなかったという〔『負けん気』文芸社、2010年、66‐67頁〕。
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: KKコンビに触発されただけでなく、幼稚園からの幼馴染であった橋本清が先にPL進学を決めた事で一層想いを強くしたため、(摂津市立第五中学校〔時代の監督の伝で決まりかけていた大阪商業大学堺高等学校への進学を断って)憧れのPL学園高等学校へ入学。この時の同期には橋本以外に片岡篤史野村弘樹(当時は野村弘)、桑田泉らがいる。2年先輩の桑田真澄と野球部合宿所「研志寮」(現在は廃止)で相部屋となる。
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: 主将として第59回選抜甲子園大会第69回夏の甲子園選手権大会の甲子園春夏連覇を達成。春の甲子園優勝後から立浪の名前がドラフト指名候補に挙がるようになったが、当時の評価は5位・6位と決して高いものではなく、PLの中村順司監督も「身体も大きくないのだから、それぐらいの評価なら大学社会人で野球を続けて、それからプロに進んでも遅くない」と、当時点でのプロ入りには否定的であった。
: その後、夏の甲子園では3番・遊撃手で21打数9安打、2本塁打、8打点の好成績を残し、優勝の一翼を担った。これにより、各球団スカウトの評価も「ドラフト2位指名は確実。外れ1位の可能性もある」と大幅に上がった。そんな中、当時南海ホークス監督であった杉浦忠が早々とドラフト1位指名の方針を固め、PL学園の顧問に対し「どうしても立浪君が欲しい。ドラフト1位で指名する」と連絡を入れている。ちなみに立浪を1位と評価したのは当時南海のみであり、他球団の評価は2位もしくは3位であった。このことや南海が地元である大阪府・大阪球場を本拠地としていたこともあり、この頃から立浪は南海入りを強く望むようになっていた。実際、南海側も「来季から湯上谷、立浪のフレッシュ二遊間で売り出す」と球団を挙げて公言するなど、立浪に対して大きな期待を寄せていた。しかしその反面、当時のセントラル・リーグパシフィック・リーグの人気格差や、読売ジャイアンツの監督であった王への憧れから「できればセ・リーグでプレーしたい」という思いも抱いていたという〔『負けん気』文芸社、2010年、14‐18頁〕。
: 1987年のドラフト会議で南海と中日ドラゴンズが1位で競合し、南海・杉浦監督と中日・星野仙一監督のくじ引きになった。結局、星野監督が当たりくじを引き当てて中日が交渉権を獲得、中日に入団する。当時中日は慶應義塾大学のエース鈴木哲を指名する予定であったが、翌年夏のソウルオリンピックを目指して社会人野球に進むことを宣言したため、ドラフト会議2日前に急遽立浪に切り替え、当時関西地区担当スカウトであった中田宗男がその旨を伝えた。なお、立浪本人は前述のセ・リーグへの憧れからドラフト会議前夜に寮のベランダに出ていたところ、偶然目の前に現れた流れ星を見て中日入団を願ったという〔『負けん気』文芸社、2010年、10‐12頁〕。
: 中日入団が決まった直後、前述の経緯から杉浦監督に謝辞を書いている。それに対して、杉浦は「ドラフトで立浪君を引き当てることができなかったのは自分の不徳のせい」「このような心が熱くなる手紙をもらったのは今回が初めて」などと述べた上で、最後に「どうか、中日ドラゴンズで思い切り、羽ばたいてください」と返している。その後中日との入団交渉に臨み、スカウトから背番号の候補として(当時一桁で空き番号であった)3と5を提示され、3を選択した。立浪は「一桁の背番号で一番格好いいのは3だといつも思っていた」という〔『負けん気』文芸社、2010年、23‐24頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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