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矢口 高雄(やぐち たかお 1939年10月28日 - )は、日本の漫画家、エッセイスト。株式会社矢口プロダクション代表取締役。本名、高橋 高雄(たかはし たかお 戸籍上は「高」が異体字で髙橋 髙雄〔2002年9月「ふるさとって何ですか 課外授業ようこそ先輩 別冊」KTC中央出版〕)。血液型A型。 自然の中での生活をテーマにした作品を描き、代表作の『釣りキチ三平』、『幻の怪蛇バチヘビ』で、釣りとツチノコブームを起こした。 == 経歴 == 秋田県雄勝郡西成瀬村(後の平鹿郡増田町、現・横手市増田町)生まれ。町の中心部から20km離れた山村に生まれ、自然に囲まれて育つ。この子供時代の生活が、後に漫画の題材となった。 4歳の時に、母親に読み聞かせてもらった宮尾しげをの『西遊記』で初めて漫画に接し、以来無類の漫画好きになる。特に手塚治虫の作品に強く惹かれ、手塚が連載する漫画雑誌を買うために杉皮背負いのアルバイトで小遣いを稼ぐほどであった。また漫画を読む一方で自ら描く事にも興味を持ち、手持ちの漫画の模写をするようになっていた。 中学生時代に生徒会長を務め、秋田県立増田高等学校を卒業後、地元の羽後銀行(現在の北都銀行)に入行。当初は銀行員としての仕事をこなすので精一杯であったが、休日に川釣りに嵩じたり描画の練習に打ち込むようになる。1966年頃から漫画誌の編集部へ自作品の投稿を繰り返すが良い返事は無かった。1968年の夏期休暇で上京し、『ガロ』の編集部へ落選した原稿を改めて持ち込み批評を頼むと、編集長である長井勝一から駄目出しを喰らうも水木しげるを紹介され、当人や水木プロの面々から執筆上のアドバイスを受けて帰郷。 1969年、ガロで入賞作の『長持唄考』(少年サンデーコミックス版「かつみ」3巻では『長持唄裁判』と改題されて収録)が掲載され、アマチュア作家として本名でデビュー。 読み切り作品を数作掲載の後1970年に銀行を退職し、家族を郷里に残して単身上京。程なくして週刊少年サンデーで読み切り作品『鮎』の掲載によりプロデビューとなる。当時30歳と当時の漫画家としては遅めのスタートだった。ペンネームは初連載作品である『おとこ道』の原作者 梶原一騎の発案によるもので、居住地の最寄り駅である大田区矢口渡駅から抜き出した。 矢口は梶原に「先生(梶原一騎)の原作のおかげで、どれだけドラマ作りやセリフの勉強をさせてもらったかわかりませんよ」と述べたそうである。別の機会であった時に梶原に「いやあ、君はいいね。いつもへりくだっている。それが人生で一番大事なことなんだ。その気持ちを忘れるなよ」と言われたそうである〔夕やけを見ていた男―評伝 梶原一騎〕。 しかしながら原作付き作品は不人気というジンクスが付きまとったため、自作のシナリオへと転換する。特に自身の趣味である釣りの経験を基にした『釣りキチ三平』(昭和版)を週刊少年マガジンで連載開始すると「釣り」ブームが巻き起こり、一躍として人気作家となった。 同作の完結後は、野生生物や自然を題材とした中編作品の連載と並行して、自身の半生を年代順に自叙伝形式で描いた「オーイ!!やまびこ」「蛍雪時代」「9で割れ!!」の連載や、エッセイ「ボクの学校は山と川」「ボクの先生は山と川」の執筆・発売を行った。1995年には出身地の増田町で画業の功績を称えられ町営(現:横手市営)の「増田まんが美術館」が開館し、プロデュースを担当し名誉館長に就任。2003年には石ノ森章太郎と生前交わした約束から石ノ森萬画館の館長(2代目)を歴任。 2001年から『釣りキチ三平 平成版』を連載中。また、2003年4月からは自身の公式ホームページ上で、身の回りの出来事をエッセイ風に綴る日記(ブログ)「矢口高雄の独り言」を掲載している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「矢口高雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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