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盧山初雄 : ミニ英和和英辞書
盧山初雄[ろうやま はつお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [はつ]
  1. (n,adj-no,n-suf) first 2. new 
: [おす]
 【名詞】 1. male (animal) 

盧山初雄 : ウィキペディア日本語版
盧山初雄[ろうやま はつお]

盧山 初雄(ろうやま はつお、1948年3月31日 - )は、埼玉県出身の武道家空手太気拳)。財団法人極真奨学会、極真空手道連盟極真館の館長で、元・国際空手道連盟極真会館(松井派)最高顧問・主席師範。極真空手九段。太気拳教士七段。元在日朝鮮人で民族名は盧初雄(ノ・チョウン、노초웅)、帰化後は戸籍上も盧山初雄となった。下段回し蹴りを得意技とし、「ローキックの盧山」とも呼ばれた〔桜の花出版:新大山道場 極真館の夜明け 〕。
== 来歴 ==
1963年(昭和38年)の高校1年の秋に大山道場へ入門する。1964年(昭和39年)4月に大山道場は財団法人極真奨学会を冠し、国際空手道連盟極真会館に刷新された。本部道場が開設されてから1967年(昭和42年)に盧山は本部指導員に就任し、指導にあたっていた。しかし、ヤン・カレンバッハとの対決で敗北した事や、ある事件が原因で禁足〔道場の稽古、出入りを禁止されること。破門よりは軽い処分。〕処分を受け〔高木薫 『わが師大山倍達』 徳間書店1990年(平成2年)、169頁。〕、一時期、極真会館を離れた。その後は嵐五郎のリングネームでキックボクシングのリングにも上がったり、大山倍達と交流のあった澤井健一から中国拳法である意拳の流れを汲む太気拳の指導を受けたりしていた。再び空手の修行に戻ったのは中村日出夫空手道拳道会総師)の門弟となった時であった。中村の門下時代に共に修行した倉本成春とは、後に義兄弟の契りを交わすほど、親交を深めている。
1973年(昭和48年)に極真会館への復帰を許された〔。そして、復帰後初めてとなる第5回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に出場した。二宮城光佐藤勝昭らを降して決勝戦へ進出して、対戦相手は山崎照朝であった。結果は4対1の判定で盧山が初優勝を遂げた。この試合は、大山倍達、大山茂郷田勇三他極真関係者、各種マスコミこれぞ極真空手の精華と絶賛し、「完成された心技の激突が大観衆に勝敗の行方を忘れさせ、深い感動の世界に酔わせた」と、極真史上に残る名勝負として語り継がれている〔『ゴング格闘技12月号増刊-BATTLE SERIES Vol.1』 日本スポーツ出版社1993年(平成5年)、91頁。〕〔『月刊フルコンタクトKARATE別冊-大山倍達と極真の強者たち』 福昌堂1995年(平成7年)、74頁。〕〔『ゴング格闘技』 日本スポーツ出版社、3月8日号、1996年(平成8年)、52-55頁。〕。
1974年(昭和49年)の第6回全日本選手権では準決勝で東孝に惜敗し、3位入賞となったが翌年の第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会の代表に選出された。他の代表選手がアメリカ遠征に参加する中で盧山は日本に残り、稽古を続け、第1回全世界選手権に備えた。
1975年(昭和50年)の第1回全世界選手権では、アメリカ代表で優勝候補のひとりであったチャールズ・マーチン〔当時の極真会館全米選手権のチャンピオンであり、第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会では最強の外国人選手と云われた。黒人特有のバネを生かしたヒット・アンド・アウェイの戦法で、突き蹴りとバランス良く攻撃してきた。3回戦ではイスラエルの100キログラムで柔道参段でもあるギドン・ギダリーを上段後ろ回し蹴り一本勝ち、4回戦では若きテクニシャンの東谷巧を破り、破竹の勢いで勝ちあがってきたが、7位に入賞した。現在は誠道塾師範を務めている。〕と準々決勝で対戦し、延長1回で判定にてチャールズを降した。決勝戦では佐藤勝昭と対戦し、再々延長までもつれ込む激戦をしたが、判定3対2で惜敗した。
1979年(昭和54年)の第2回全世界選手権では推薦で出場したが、2回戦で棄権した。
1980年(昭和55年)4月、極真会館埼玉南支部を開設した。
1994年(平成6年)4月、大山倍達の没後、松井章圭を館長とし、盧山は最高顧問・首席師範に就任する新体制が発足した。盧山は大山の遺言を全うすべく、元来の極真空手の伝承と空手道の普及と発展のために休眠状態であった財団法人復活を強く願い、幾度となく松井に進言したが、聞き入れられる事はなかった。そして盧山の考えとは裏腹に松井は団体を徐々にビジネス化、そして、ショー空手化していった。松井体制に業を煮やした盧山は、数見肇廣重毅らと共に極真会館松井派を離脱した。
2002年(平成14年)12月、大山の残した極真精神継承と遺言に基づき財団法人復活すべく、極真空手道連盟極真館を設立し、館長に就任した。その後、空手道の普及と発展を目的に、公益法人である財団法人極真奨学会を復活させた。そして、現在、財団法人極真奨学会を基軸として、分裂した極真他派閥をまとめる事で、統一大会を実現させる中心的人物として活動している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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