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田中栄三 : ミニ英和和英辞書
田中栄三[たなか えいぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [さかえ, はえ]
 【名詞】 1. glory 2. prosperity
: [み]
  1. (num) three 

田中栄三 : ウィキペディア日本語版
田中栄三[たなか えいぞう]

田中 栄三(たなか えいぞう、1886年11月3日 - 1968年6月13日)は、日本映画監督脚本家俳優である。
新劇俳優から日活向島撮影所で映画監督となる。純映画劇運動の旗手として、「革新映画」と呼ばれる『生ける屍』や、『京屋襟店』などの画期的作品を作り、日本映画の芸術的革新者〔世界大百科事典 第2版「田中栄三」の項 〕の一人となった。晩年は後進の指導を行い、俳優として自ら映画にも出演した。著書も多い〔OPAC NDL 検索結果、国立国会図書館、2009年12月4日閲覧。〕。
== 来歴・人物 ==
1886年(明治19年)11月3日東京都日本橋兜町に生まれる〔JLogos 芸能人物事典「田中栄三」の項〕。父親の伝吉は株屋を営んでいた〔『映画評論 第19巻』p.92-97〕が、3歳の時に父と死別している〔。1905年(明治38年)に国民英学会英文科を卒業し、校長の推薦で〔同校の講師となる〔佐藤忠男著『日本の映画人 日本映画の創造者たち』p.373〕。
1908年(明治41年)11月、藤沢浅二郎の主宰する東京俳優養成所(後に東京俳優学校に改称)に第一期生として入所。同期には上山草人諸口十九岩田祐吉がいた。田中はそこで教授をしていた小山内薫から近代劇のドラマトゥルギーや演技のリアリズムを学び〔、3年後の1911年(明治44年)6月、同校を卒業。俳優学校第一回卒業生試演『廃馬』(佐藤紅緑作)に岩田、諸口らとともに出演した〔『日本演劇史年表』p.236〕。卒業後は小山内の土曜劇場新劇場に参加して新劇俳優となるが、上手くいかなかった。
1917年(大正6年)4月、桝本清の勧めで日活向島撮影所に入社〔。はじめの7ヶ月間は小口忠監督の助手を務めており〔田中純一郎著『日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代』p.275-277〕、翌1918年(大正7年)1月に監督となり、3月16日公開の『』で映画監督デビューした。
当時の日活向島撮影所は、新派映画を作っており、女役を女形が演じるなど、旧態依然とした製作体制をとっていた。そんな中、田中は日活の新派映画の革新を志し、山本嘉一、桝本らと同志的結合を結び〔、同年に監督第2作として、レフ・トルストイの同名小説の映画化である『生ける屍』を発表。同作では、カットバック移動撮影、逆光線撮影などの技法を効果的に使った〔ほか、これまでの書割りからロケーション撮影を行ったり、イタリア映画を真似てこれまでの映画にはなかったアヴァンタイトルの監督名等のクレジットをつけるなど、旧来の作品からの脱却を試み「革新映画」の第1作とされた〔。また、田中が行った試みは帰山教正によって理論化・実践されており、二人は純映画劇運動の旗手的存在となった。
1919年(大正7年)に製作した『己が罪』では、陰ゼリフを止め、スポークンタイトルを入れ、ショットを細かく割ってみせた〔今村昌平著『日本映画の誕生』p.34〕が、全国の活動弁士から日活営業部あてに抗議が寄せられた。
1920年(大正9年)、日活向島に女優を採用した映画を製作する、新劇部門の「第三部」を設け、田中はその第1作となる『朝日さす前』を監督。同作は12月31日に正月映画として封切られ、以降は第三部映画を作るが、1921年(大正10年)11月26日チフスにかかって東京病院に入院〔『映画評論 第20巻』p.128〕し、半年間休業することとなった。この頃に第三部は解体された。
復帰後の1922年(大正11年)12月30日、『京屋襟店』が公開。同作は下町の老舗の没落を四季の移り変わりの中で描き、日活最後の女形映画となったが、日本人の生活と欲望をなまなましく表現した画期的な作品となり〔世界大百科事典内の《京屋襟店》の言及 より〕、最高傑作と評された。1923年(大正12年)3月15日には、岡田嘉子主演の『髑髏の舞』が公開され、日活向島も新派劇から現代劇へと転換することとなった。同年5月、同撮影所を退社した〔田中純一郎著『日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代』p.370〕。また、同年11月10日に開校した日本映画俳優学校では、森岩雄近藤伊与吉、帰山、仲木貞一らとともに講師を務めた。
1926年(大正15年)、東京の日活本社に同社の企画本部「金曜会」の結成に参加〔田中純一郎著『日本映画発達史Ⅱ 無声からトーキーへ』p.41〕。森岩雄や益田甫村田実らも参加して日活現代劇向上のためにシナリオを提供する。田中も溝口健二監督の『紙人形春の囁き』と、阿部豊監督の『彼を繞る五人の女』のシナリオを書く。
以降は、日本大学芸術学部映画科や、大映の演技研究所などで後進の育成を行った。戦後は、今井正監督の『また逢う日まで』(1950年)や豊田四郎監督の『』など、各社の映画に俳優として出演した。その傍ら、『トーキー俳優読本』等の著書を執筆、上梓し続けた。
1968年(昭和43年)6月13日午前6時、東京都世田谷区池尻の古畑病院で老衰のため死去〔キネマ旬報, p.249〕。享年81。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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