翻訳と辞書
Words near each other
・ 上山竜治
・ 上山競馬場
・ 上山紗奈
・ 上山美紀
・ 上山義房
・ 上山義直
・ 上山良子
・ 上山英一郎
・ 上山英三
・ 上山英介
上山草人
・ 上山薫
・ 上山藩
・ 上山警察署
・ 上山路村
・ 上山道郎
・ 上山郵便局
・ 上山雅輔
・ 上山電気
・ 上山高原ふるさと館


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

上山草人 : ミニ英和和英辞書
上山草人[かみやま そうじん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [じょう]
 (n,pref,suf) 1. first volume 2. superior quality 3. governmental 4. imperial 5. top 6. best 7. high class 8. going up 9. presenting 10. showing 1 1. aboard a ship or vehicle 12. from the standpoint of 13. as a matter of (fact) 13. superior
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [くさ]
 【名詞】 1. grass 
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1

上山草人 : ウィキペディア日本語版
上山草人[かみやま そうじん]

上山 草人(かみやま そうじん、1884年1月30日 - 1954年7月28日)は、日本俳優。本名は三田 貞(みた ただし)。号は半月〔美術人名辞典「上山草人」の項 〕。
坪内逍遥文芸協会を経て、妻の山川浦路らと近代劇協会を設立して新劇俳優として活動。1919年(大正8年)に渡米してからは映画界に転向し、ダグラス・フェアバンクス主演の活劇映画『』に出演。ハリウッドで活躍した日本人俳優の一人となった。帰国後の出演作に『赤西蠣太』『七人の侍』などがある。
== 来歴 ==

=== 新劇俳優に ===
1884年(明治17年)1月30日宮城県遠田郡涌谷町に父・上山五郎の次男として、五郎の愛人である角川浦路との間に生まれる〔: 谷崎潤一郎との交友を中心に」細江光 〕。父は産婦人科病院を経営していた医者で、宮城医学校教授を務めた。母は涌谷町の名門の医者の娘である〔が、草人が産まれてすぐに発狂したため、草人は母と引き離され、親戚の家を転々として10歳から父親宅に引き取られた。父親は厳しく、愛情薄い幼少期だった〔自伝『蛇酒』〕。生家は涌谷町の涌谷第一小学校の前庭にあり、今でもそこにあった木が残っている。
宮城県立第二中学を卒業して、1903年(明治36年)に上京。父の友人である犬養毅宅へ寄宿し、早稲田大学文科に通う〔〔『日本映画俳優全集・俳優篇』p.165-166〕。在学中はテニスに熱中した。この頃に川上音二郎に共感し、後の妻山川浦路と知り合った。
1905年(明治38年)、本郷座新派大合同『金色夜叉』に全身を金粉で塗った夜叉役で出演、これが初舞台となった〔。
1907年(明治40年)、大学を中退して東京美術学校日本画科に入学(後に中退)〔。翌1908年(明治41年)に浦路との間に長男・平八が産まれ、3月に犬養の仲人で浦路と結婚した〔〔。同年11月、藤沢浅二郎主宰の東京俳優養成所(後に東京俳優学校)に第1期生として入所。同期には諸口十九岩田祐吉勝見庸太郎田中栄三らがいる。しかし、講師の桝本清と衝突して排斥運動を起したため、1909年(明治42年)に退所させられた〔〔。その後は栗島狭衣一座に加わり、有楽座で毎週土曜日に催されるお伽芝居に出演。また、岩藤思雪が狭衣一座を使って製作した児童用映画『新桃太郎』『カチカチ山』『牛若丸』などに出演〔。お伽芝居には栗島すみ子田口桜村天野雉彦らも出演していた。
同年5月、坪内逍遙の起こした文芸協会演劇研究所が開設され、8月の研究生補欠募集に合格して入所した〔。妻の浦路、佐々木積、小林正子(松井須磨子)らの第1期生に加わり、上山草人を芸名とした〔。研究所時代は土肥春曙が保証人となった〔。同年12月、化粧品開発に熱心だった草人は妻と新橋で「かかしや」という化粧品店を開店〔〕、草人が考案した眉墨は人気を集めて繁盛した。
1911年(明治44年)4月、研究所を卒業し文芸協会に加入したが、7月に大阪角座の『ハムレット』公演中に配役上の不満からトラブルを起こし、夫婦ともども退会させられた〔。1912年(明治45年)5月、浦路や伊庭孝衣川孔雀らと共に近代劇協会を結成。10月にイプセン作『ヘッダ・ガブラー』の上演で旗揚げ〔デジタル版 日本人名大辞典+Plus「近代劇協会」の項 〕。翌1913年(大正2年)に森鴎外訳の『ファウスト』、9月に同訳の『マクベス』を上演し話題を呼んだ。大正時代初頭に起こった新劇ブームの一翼を担い、草人は俳優としてよりも興行主としての手腕のほうが評価された。当時7歳の夏川静江を発掘したのも草人であった。妻も芝居を始めたことで、出身校の女子学習院から除名騒ぎを起こされながらも〔〕、劇団運営を支えた。妻公認の愛人である衣川の協会脱退などで、次第に経済的に行き詰まり、根岸興行部の陰の顧問となって苦境を打開する〔ものの、1919年(大正8年)2月の『リア王』上演を最後に協会を解散した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「上山草人」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.