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王舒 : ミニ英和和英辞書
王舒[おう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

王舒 : ウィキペディア日本語版
王舒[おう]
王舒(おう じょ、生年不詳 - 333年)は、中国東晋官僚軍人は処明。本貫琅邪郡臨沂県
== 経歴 ==
侍御史の王会の子として生まれた。成長すると、当時の情勢が不穏だったため、家に引きこもって学問に専念していた。40歳を過ぎて、州や太傅の召命があったが、官に就こうとしなかった。307年永嘉元年)、従兄の王敦青州刺史となると、王舒は赴いてこれを頼った。王敦が秘書監として召還されると、行路の治安が悪化していたため、妻の襄城公主を残して、軽騎で洛陽に帰った。王敦の残した多くの荷物や財宝は、親族や郎党たちが争って取ったが、王舒はひとり見向きもしなかった。
琅邪王司馬睿が南遷して建業に駐屯すると、王舒は家族とともに長江を渡った。参鎮東軍事となり、溧陽県令として出向した。司馬紹が東中郎将となると、王舒はその下で司馬をつとめた。宣城公司馬裒の下に転じて、後軍諮議参軍となった。軍司とされたが、固辞して受けなかった。317年建武元年)、司馬裒が広陵に駐屯すると、王舒はその下で車騎司馬となった。司馬裒が死去すると、王舒は代わって広陵に駐屯し、北中郎将・監青徐二州軍事に任じられた。ほどなく建康に召還されて、国子博士となり、散騎常侍の位を加えられた。就任しないうちに、少府に転じた。323年太寧元年)、廷尉となった。
王敦の推挙により鷹揚将軍・荊州刺史・領護南蛮校尉・監荊州沔南諸軍事とされた。324年(太寧2年)、王敦が死去し、王含父子が王舒を頼って逃亡してきたが、王舒は軍を派遣してかれらを長江に沈めさせた。都督荊州・平西将軍・仮節に進んだ。325年(太寧3年)、安南将軍・広州刺史に転じた。病のため嶺南への赴任がままならず、朝廷もかれに配慮して湘州刺史とした。326年咸和元年)、鄧攸が死去すると、王舒は建康に召還されて尚書僕射となった。
327年(咸和2年)、蘇峻大司農として召還されることとなったため、王舒は従兄の王導の意向により、撫軍将軍・会稽国内史に任じられることとなった。王舒は会稽の「会」の字が父の名に触れていることから、他所への赴任を求めた。朝廷が会稽を鄶稽と改めたため、王舒はやむなく赴任した。蘇峻が反乱を起こすと、王舒は仮節・都督となり、揚州刺史の事務を代行した。328年(咸和3年)、呉国内史庾冰が王舒のもとに逃れてくると、王舒は呉王師の虞𩦎を軍司とし、御史中丞の謝藻を行龍驤将軍・監前鋒征討軍事とし、1万の兵を率いて、庾冰とともに浙江を渡った。前義興郡太守顧衆や護軍参軍の顧颺らが起兵して、王舒に呼応した。王舒は顧衆を揚威将軍・督護呉中軍事とし、顧颺を監晋陵軍事として、御亭に塁を築かせた。蘇峻は王舒らが起兵すると、庾亮の弟たちを釈放して、東軍を率いさせた。王舒は兵を率いて郡の西江に入り、庾冰や謝藻らを後詰めとした。庾冰や顧颺らは先鋒隊を派遣して無錫に拠らせたが、反乱軍の将の張健ら数千人と交戦して大敗し、御亭に逃げ帰った。庾冰や顧颺らは銭塘に撤退し、謝藻は嘉興を守った。反乱軍は呉に侵入し、府舎を焼き、諸県を略奪した。王舒は敗戦の罪により庾冰や顧颺の督護の任を解き、無官のまま軍事を代行させることとした。顧衆を督護呉晋陵軍として、章埭に兵を駐屯させた。呉興郡太守の虞潭が部下を率いて張健を討ち、烏苞亭に駐屯したが、あえて進軍しようとしなかった。ときに暴雨で洪水のさなかを、反乱軍の管商が船を出して、虞潭と顧衆を襲撃した。虞潭らは敗れて逃走した。虞潭は軍を帰して呉興郡を守り、顧衆は退いて銭塘を守備した。王舒は将軍の陳孺に精鋭1000人を与えて海浦に寨を増築させ、塁を築かせた。ある人が建康に帰るよう王舒に勧めたが、王舒は聞き入れなかった。王舒は謝藻に銭塘を守らせ、顧衆や顧颺に紫壁を守らせた。反乱軍が呉興郡に進攻すると、虞潭らの軍はさらに撤退した。反乱軍は東遷県・余杭県・武康県などを略奪した。王舒は子の王允之に精鋭3000を与えて、反乱軍を武康県に邀撃させ、これを撃破した。また反乱軍の韓晃が故鄣県や長城県に転進してくると、また允之が于湖でこれを撃破した。ときに臨海県や新安県は反乱側についていたが、王舒が兵を分遣して平定した。陶侃らが建康に入ると、王舒や虞潭らはたびたびの敗戦の罪を上書して、自ら節を返上した。陶侃が使者を派遣して諭したが、聞き入れなかった。陶侃が行台を立てると、王舒を監浙江東五郡軍事に推挙した。蘇峻の乱が鎮圧されると、王舒は功績により彭沢県侯に封じられた。
333年(咸和8年)6月、在官のまま死去した。車騎大将軍・儀同三司の位を追贈された。は穆といった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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