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猪瀬直樹 : ミニ英和和英辞書
猪瀬直樹[いのせ なおき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いのしし]
 【名詞】 1. wild boar 
: [せ]
 【名詞】 1. current 2. torrent 3. rapids 4. shallows 5. shoal 
: [ひた, ちょく]
 【名詞】 1. earnestly 2. immediately 3. exactly

猪瀬直樹 : ウィキペディア日本語版
猪瀬直樹[いのせ なおき]

猪瀬 直樹(いのせ なおき、1946年11月20日 - )は、日本作家長野県出身。地方分権改革推進委員会委員、日本文明研究所所長、大阪市特別顧問、大阪府特別顧問。
東京都知事(第18代、1期)、東京工業大学世界文明センター特任教授東京大学大学院人文社会系研究科客員教授国際日本文化研究センター客員教授を歴任。
== 経歴・人物 ==
長野県下水内郡飯山町(現・飯山市)生まれ。2歳半から長野市に移る。父が飯山出身で母は松本の出身、両親共に小学校教師。諏訪市高島小で知り合って結婚し、飯山に異動になってそこで生まれる。育ったのは長野市。往生寺のすぐ下に住んでいた。1950年5月、3歳半のとき父親が狭心症で急死した。
信州大学教育学部附属長野小学校信州大学教育学部附属長野中学校長野県長野高等学校を経て、信州大学人文学部経済学科卒業。大学在学中は新左翼学生運動の指導者であり、通称「白ヘル」(中核派)に属した〔『情況』2012年11月・12月合併号(情況出版)253頁。〕。1967年羽田事件を皮切りに新左翼学生運動が高揚しており、1969年に信州大学全共闘議長をつとめている。大学構内のバリケード封鎖を行ったり、学生運動の主力部隊を率いて上京し、反米・反イスラエルの10.21国際反戦デー闘争佐藤首相訪米阻止闘争に参加したりした〔臼井敏男 『叛逆の時を生きて』(2010年、朝日新聞出版)144〜146頁〕。猪瀬は、自身も参加したこの1969年の佐藤訪米阻止闘争でもって、60年代後半の学生運動は終わったと述べている。その後の運動は、いわゆる全共闘運動ではないと主張している。
大学卒業後、上京し結婚。出版社勤務などを経て、1972年明治大学大学院政治経済学研究科政治学専攻博士前期課程にて政治学者の橋川文三に師事し、日本政治思想史を研究。ナショナリズム研究の橋川文三に教えを請うたのは、学生運動を離れた後、「日常性の連続がふつうの生活」「そうした日常性から日本の近代やナショナリズムをもう一度とらえ直さないといけないと思った」からだという〔。
その後、ビル清掃等を経て〔「ひと:『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞の猪瀬直樹さん」(『朝日新聞』1987年10月21日、3頁)に「ビル清掃、国労書記などからノンフィクション作家」と記されているが、誤記である。猪瀬本人は「大学院時代2カ月ほど『国労東京地方本部20年史』の編纂で生き証人から聴き取り調査するアルバイトをした。記者がそそっかしかったのだろう」と述べている(文責・猪瀬直樹事務所)〕、作家活動に転じる。1987年西武グループ堤義明について皇族との関係を絡めながら著した『ミカドの肖像』により、第18回大宅壮一ノンフィクション賞ジャポニスム学会特別賞受賞。「世界史のなかで天皇制を考える」をテーマに、「なぜ、西武グループが皇族の土地にプリンスホテルを建てたか?」「なぜ、オペレッタミカド』が欧米人から喝采を浴びるのか?」「なぜ、明治天皇の『御真影』は西洋人の風貌になったのか?」という3つの謎を主軸に展開する。1996年、『日本国の研究』により、文藝春秋読者賞を受賞。
2001年、小泉内閣の行革断行評議会(行政改革担当大臣の諮問機関)に名を連ねる。2002年道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任。
2007年地方分権改革推進委員会委員に就任。2001年から2009年まで東京大学大学院人文社会系研究科客員教授、2001年から2003年まで国際日本文化研究センター客員教授、2006年から東京工業大学世界文明センター特任教授
2012年3月26日、マラソン初挑戦にして東京マラソンを完走。走破タイムは6時間40分。
2007年から、石原慎太郎知事の下で東京都副知事を務めていたが、石原知事の退任に伴い後継指名を受け、2012年(平成24年12月16日東京都知事選挙に立候補の届出〔新人8人が届け出石原都政の継承か刷新か、猪瀬氏軸に選挙戦展開 産経新聞 2012年11月29日閲覧〕。そして選挙で433万8936票を獲得し、日本の選挙史上では個人としては最多得票記録で当選を果たした〔猪瀬直樹氏、当選あいさつ「毎日楽しく、選挙を戦った」「ぜひ被災地に出かけ、できること考えて」 産経新聞 2012年12月17日閲覧〕。青島幸男、石原慎太郎に続き、東京都知事は3人連続で作家出身となった。また、初の戦後生まれの都知事となった。猪瀬は石原前知事の五輪招致方針を引き継ぎ、2020年オリンピックの東京招致を成功させた。しかし、その後徳洲会グループからの不透明な借入金問題を追及されて任期1年余りで辞任した(#徳洲会グループからの資金提供問題)。なお五輪招致活動中の2012年7月に、妻・ゆり子が逝去している。
都知事の職を辞してから約10ヶ月、メールマガジンの発行だけを続けた。2014年10月末に新刊発行をもって執筆活動を再開したが、政治活動は行わないことを表明している〔猪瀬氏がラジオ出演「政治はもういい」 日刊スポーツ 2014年11月3日閲覧〕。なお徳洲会資金問題で罰金刑が確定し5年間の公民権停止となったため、解除まで選挙には一切出馬出来ない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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