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特永 ( リダイレクト:特別永住者 ) : ウィキペディア日本語版
特別永住者[とくべつえいじゅうしゃ]

特別永住者(とくべつえいじゅうしゃ)とは、平成3年(1991年11月1日に施行された日本法律日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」により定められた在留の資格のこと、または当該資格を有する者をいう。

==概説==
米国戦艦ミズーリ艦上での日本の降伏文書調印日(昭和20年(1945年9月2日)以前から引き続き日本内地に居住している平和条約国籍離脱者朝鮮人及び台湾人)とその子孫を主に対象としているが、朝鮮、韓国系の特別永住者には戦後の密航者も多く含まれる〔〔1959年6月16日朝日新聞〕(戦後来日の特別永住者も参照)。
第二次世界大戦後、日本の領土下にあった朝鮮は連合国に分割占領され後に韓国北朝鮮として独立し、同じく日本の領土下にあった台湾は中華民国となった。そして、サンフランシスコ講和条約によって、日本がそれらの国または地域の独立を認めるに際して、法務府民事局長から「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」と題する通達が出され、それらの国の主権が及ぶべき法的地位にあると認められる者は、講和条約の発効(1952年4月28日)とともに、一律に日本国籍を喪失する取扱いとなった(日本国籍者でい続けるか、朝鮮籍に戻るかの選択肢は与えられなかった)。そして、日本政府は、これら国籍離脱者の関係国への送還をGHQや韓国政府などと調整していた経緯があるが、受け入れられず、「かつて日本国籍を有していた外国人」を協定永住許可者として在留資格を認めた(一般的な永住資格を持つ外国人である一般永住者とは異なる)。
平成25年(2013年)末時点での特別永住者の実数は、37万3221人であり、国籍別では「韓国・朝鮮」が36万9249人99%を占める〔国籍・地域別 在留資格(在留目的)別 在留外国人 〕。

特別永住者は三大都市圏の10都府県に集中しているのが特徴で、近畿圏(大阪・兵庫・京都の3府県)に45%、首都圏(東京・神奈川・埼玉・千葉の4都県)に22%、中京圏(愛知・三重・岐阜の3県)に11%が居住している。合わせると実に78%、3分の2超がこれらの地域に集中している。(詳細は以下を参照)。
一般永住者とは異なる枠の特別永住者が発生した経緯を概説する。
1895年の台湾編入や1910年の日韓併合により中国人(台湾人)や朝鮮人などは日本国籍となったが、1945年ポツダム宣言の受諾による日本敗戦と第二次世界大戦の終結により、在日旧統合地出身者が、1952年4月28日まで法律上なお日本国籍を保持していたことに端を発する〔水野直樹 在日朝鮮人台湾人参政権「停止」条項の成立 ―在日朝鮮人参政権問題の歴史的検討(1)― 水野直樹 〕。
1945年昭和20年)末からGHQ指令による非日本人の送還が始まり、12月には清瀬一郎らの主張により、旧統合地出身者(朝鮮・台湾・樺太人。ただし樺太のアイヌは除く)を戸籍から外し、その上で戸籍法の適用を受けない者の参政権を「当分ノ内停止」する内容の、衆議院議員選挙法改正案を可決した〔同様の条文は、1946年に参議院議員選挙法案や1947年の地方自治法案にも同様の内容の規定が盛り込まれて成立し、また、現行の公職選挙法附則第2項にほぼそのまま残っている〕。
終戦直後にはおよそ200万人の朝鮮人が居住していたとされるが、そのうちの150万人前後は1946年3月までに日本政府の手配で帰還している(うち、徴用で来日したものは245人が残留)〔
:『朝日新聞』 1959年7月13日 2面 「大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人」
:『毎日新聞』 1959年7月13日 「滞日は『自由意思』 朝鮮人 戦時徴用はわずか 外務省発表」
:『読売新聞』 1959年7月13日 「自由意思で残留 戦時徴用者は二四五人 在日朝鮮人出入国白書」〕。
1946年、GHQ・日本政府は植民地出身者を「日本国籍を保有するとみなされる」とし、地方の法律・規則に服すこと、1947年には日本学校に通学することを義務づけ、これにより都道府県は朝鮮学校の学校閉鎖令を出したが、これに反発した在日朝鮮人が阪神教育事件(1948年)を起こしている〔。1947年には最後のポツダム勅令である外国人登録令第11条により「台湾人のうち内務大臣の定める者及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」とされ、これにより日本の居住する植民地出身者は外国人登録申請の義務が課せられ、その移動(日本列島内及び朝鮮半島から日本列島への移動を問わず)には特別な規制が課された。もっとも、勅令は入国管理に関するものではなく、朝鮮半島から日本列島への移動を含めて国内移動としての規制である。
1948年、韓国、北朝鮮はそれぞれ1948年に連合国軍政から独立した。1948年4月3日に済州島四・三事件が起こり〔済州島四・三事件と私たち 大阪産業大学藤永壯教授HP〕、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国)政府が、島民の動きに南朝鮮労働党が関与しているとして、島民全人口の20%にあたる6万人を虐殺、島内の70%が焼き尽くされた。この事件に続いて同年10月19日、麗水・順天事件が起こり反乱軍のみならず8000人の民間住民が虐殺された。これらの虐殺事件の際にも済州島全羅南道から多くの韓国人が日本に不法入国した(1955年までに1万2500人〔)。これらの事件について韓国政府は長い間タブー視し、事件の全容が明らかになったのは、民主化後の1990年代以降である。但し、日本は1952年のサンフランシスコ平和条約発効まで朝鮮半島の独立を認めていなかったため、「不法入国」という表記は正しくないという説もあるが、当時の日本政府や新聞ではこの時期に朝鮮半島から密航してくる者を「不法入国者」としており、日本政府も取締りを行っている〔吉田茂「在日朝鮮人に対する措置(1949年)」〕〔。
1949年には、当時の吉田首相が、在日朝鮮人は100万人程おり、その半数は不法入国で、日本で犯罪を犯す者も多く、日本の復興にまったく貢献していないので、「日本の経済復興の貢献する能力を有すると思われる朝鮮人」以外は日本が費用を持つので母国たる半島に帰還して欲しいという「在日朝鮮人に対する措置(1949年)」文書をマッカーサへ提出している。
1950年6月から1953年7月にかけては、朝鮮戦争が勃発し、半島全土が荒れ地となる。
1952年サンフランシスコ講和条約発効により日本が国家主権を回復すると、同時に日本領土の最終画定に伴う朝鮮の独立を承認した。これにともない日本政府は「朝鮮人は講和条約発効の日をもって日本国籍を喪失した外国人となる」という通達を出し、旧統合地出身者は名実共に日本国籍を失った〔。日本国籍を失った在日韓国朝鮮人は「在留資格及び在留期間が決定されるまでの間、引き続き在留資格を有することなく本邦に在留することができる」とされた〔「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づく外務省関係者諸命令の措置に関する法律」2条6項〕。当時の韓国朝鮮人は、併合による日本国籍の保持に興味は無く、これらの日本国籍喪失措置に異議を唱えなかった。また韓国政府は、日本の要請があっても在日韓国・朝鮮人の送還を拒否している〔〔 ISBN 4000230182〕。
こうした終戦以降の一連の日本政府の対応について、旧植民地出身者の国籍は選択可能にするのが当時の国際基準であったにもかかわらず通達によって一方的に国籍を剥奪した、都合良く「日本国籍保有者」「外国人」の扱いを使い分けた、と批判する研究者もいる〔。もっとも、この通達は国際的な承認を得たサンフランシスコ講和条約第2条(領土の放棄または信託統治への移管)に伴うものであると最高裁で解釈されている〔最大判昭和36年4月5日民集15巻4号657頁〕。
1955年、当時の小泉純也法務政務次官は国会において、在日朝鮮人らは、母国に帰りたいという者が一人もいないと言える状態で、一方半島からは手段・方法を選ばず、命がけでどんどん密航をしてきており、日本が彼らを強制送還をしようとしても、韓国政府はこれを受け入れない為、日本に入れっぱなし状態であり、朝鮮戦争で密航してきた者等を収容していた大村収容所も人員がいっぱいで、入国管理局だけでは手に負えない状況であることを答弁している〔。 また1959年の朝日新聞によれば、在日韓国朝鮮人は日本政府や連合国の手配を拒んで自ら残留したものである〔。また同年には、朝鮮戦争にともない、日本でも北朝鮮政府支持者と韓国政府支持者との紛争が多発した(新潟日赤センター爆破未遂事件)。
1965年、日韓基本条約締結に伴い締結された在日韓国人の法的地位(協定永住)について定めた日韓両国政府間の協定(日韓法的地位協定)により在日韓国人に「協定永住」という在留資格が認められた。これは国外退去に該当する事由が他の外国人と比べて大幅に緩和されたもので、資格は2代目まで継承できることとし、3代目以降については25年後に再協議することとした〔。1977年からは在日本大韓民国民団(民団)主導で「差別撤廃・権益擁護運動」が開始され、在日韓国人の参政権獲得運動も始まった。当時、民団は「日本語を使い、日本の風習に従う社会同化は義務」としていた〔「参政権」は必要か(上)/背景に不純な動機 朝鮮新報〕。
1991年、入管特例法により3代目以降にも同様の永住許可を行いつつ、同時に韓国人のみが対象となっていた協定永住が朝鮮籍、台湾籍の永住者も合わせて特別永住許可として一本化された。また、この時の「九一年日韓外相覚書」には「地方自治体選挙権については、大韓民国政府より要望が表明された」と明記された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「特別永住者」の詳細全文を読む




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