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津田恒実 : ミニ英和和英辞書
津田恒実[つだ つねみ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [み, じつ]
 【名詞】 1. fruit 2. nut 3. seed 4. content 5. good result 

津田恒実 : ウィキペディア日本語版
津田恒実[つだ つねみ]

津田 恒実(つだ つねみ、1960年8月1日 - 1993年7月20日)は、山口県出身のプロ野球選手投手)。愛称は「ツネゴン」。旧名「恒美」(読み同じ)。
== 来歴・人物 ==
山口県都濃郡南陽町(現:周南市)の山間部・和田地区出身。南陽工高では、1年時からエース投手として活躍していた。1978年第50回選抜高等学校野球大会に出場、準々決勝に進むが福井商に敗退〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。同年の第60回全国高等学校野球選手権大会では2回戦まで駒を進めるが天理高に0-1で惜敗〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。
卒業後は防府市に本拠を置いていた社会人野球協和発酵(現:協和発酵キリン)に入社。1981年都市対抗電電中国の補強選手として出場。1回戦で優勝候補の富士重工業を抑え注目を浴びる。しかし2回戦ではリッカー中西清起と投げ合い敗退した〔「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年〕。同年の日本選手権では、協和発酵のエースとして2勝をあげ準々決勝に進出するが、この大会に優勝した富士重工業の向田佳元との投手戦の末に惜敗。都市対抗の仇を討たれた形になった。
同年のドラフト会議広島東洋カープに1位指名され入団。入団当初から古葉竹識監督も大きな期待を寄せていた。1年目の1982年に先発投手として11勝6敗の成績を残し、球団初の新人王に輝く。しかし2年目の後半戦以降は、ルーズショルダー〔「動揺性肩関節症」とも呼ばれ、関節があらゆる方向に正常以上に動いて、不安感を伴う症状。〕 や中指の血行障害などに悩まされ、登板機会が激減。
その後、血行障害を治すため、世界初となる中指の靭帯を摘出する手術を受ける。1985年に「恒美」から「恒実」へと改名。1986年に抑え投手として復活し、前半戦を防御率0点台で折り返す。後半戦からは調子を落としたものの、チーム5度目のリーグ制覇に大きく貢献、シーズン終了後にカムバック賞を獲得した。1987年にも防御率1点台を残す活躍を見せたが、1988年は肩痛などが遠因してリリーフ失敗を繰り返すなど9敗を喫し、『サヨナラの津田』とも揶揄された。しかし、翌1989年に防御率1.63、12勝5敗28セーブを挙げる活躍で最優秀救援投手ファイアマン賞に輝き、再び復活を遂げる。闘志を剥き出し、ピーク時153km/h(6月28日にマーク)の剛速球と縦横の鋭いカーブを武器に相手打者に敢然と立ち向かう姿は、『炎のストッパー』と形容された。
1990年、右肩や右膝の故障の為に僅か4試合の登板に終わると、同年のシーズン終了後から頭痛をはじめとする身体の変調を訴えるようになる。1991年、前年から続く体調不良を抱えたまま開幕を迎え、4月14日に無理を押して広島市民球場(当時)で行われた読売ジャイアンツ戦で、1点リードの8回表に先発した北別府学の後を受けて登板するが、無死二塁・三塁のピンチを招き、原辰徳に同点適時打を打たれるなど大乱調のためわずか9球で降板となり、敗戦投手となる。これが自身の生涯最後の登板となった〔【4月14日】1991年(平3) 炎のストッパー・津田、悲しい最後のリリーフ -Sponichi Annex〕。
普通の頭痛だと思って放置したものの、長らく治まらなかったこともあり、この試合の翌日、広島大学病院に検査入院。精密検査の結果、手術で摘出できない位置に悪性の脳腫瘍があることが判明。このとき、本人は告知を受けていたが、球団は周囲の動揺を避けるため本当の病名を伏せ「水頭症のため引退」と発表、5月20日に準支配下登録選手とした。闘病生活に入り〔【復刻】炎のストッパー津田投手が死去 - 日刊スポーツ1993年7月21日付(復刻版)〕、自宅や実家での療養を経て済生会福岡総合病院福岡市中央区)へ転院。その後本人の意思により退団届を提出、11月6日付で受理され現役を引退。一時は奇跡的な回復を見せ、退院後は福岡市内で借家住まいをした。現役復帰に向けたトレーニングも行うようになったが、1992年6月頃を境に再び病状が悪化、八代にあった夫人の実家に身を寄せた後8月20日に済生会福岡総合病院へ再入院。1993年7月20日14時45分に同病院において32歳の短い人生を閉じた〔。
初代の広島市民球場にはその功績と人柄を讃え、「直球勝負 笑顔と闘志を忘れないために」の文章が浮き彫りにされたメモリアルプレート(津田プレート)が設置されていた。同球場に設置された個人の記念碑は、連続試合出場記録を樹立した衣笠祥雄に次いで2人目。後日、大野豊ら広島の選手は、試合に出場する時必ずこのプレートに触れていくというエピソードが「勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー」内で紹介された。現在、このプレートは2009年に開場した広島の新本拠地であるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に移設されている。
野球体育博物館(現・野球殿堂博物館)は2012年1月12日、津田が広島時代の同僚である北別府学と共に野球殿堂入り(競技者表彰・プレーヤー表彰)したことを発表した。競技者表彰・プレーヤー表彰の被投票資格(引退後20年以内)最終年、当選必要数をわずか1票上回る237票を集めての選出だった〔炎のストッパー・津田さん殿堂入り、晃代夫人も涙「一番驚いているのは津田本人」 - スポーツ報知2012年1月13日〕。殿堂入り表彰は津田の命日である7月20日のオールスターゲーム第1戦(京セラドーム大阪)の試合前に行われた。
2012年秋に周南市が津田の功績を称え、同市野球場の愛称を公募。12月14日に球場の愛称が「津田恒実メモリアルスタジアム」と決定した〔津田恒実さん:山口県周南市に「メモリアルスタジアム」 毎日新聞、2012年12月14日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「津田恒実」の詳細全文を読む




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