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江戸&じゃがたら : ミニ英和和英辞書
江戸&じゃがたら[えど]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう, え, ごう]
 【名詞】 1. inlet 2. bay 
江戸 : [えど]
 【名詞】 1. old name of Tokyo 
: [と]
 【名詞】 1. door (Japanese-style) 

江戸&じゃがたら ( リダイレクト:JAGATARA ) : ウィキペディア日本語版
JAGATARA[じゃがたら]

JAGATARA(じゃがたら)は、江戸アケミを中心とする日本のロックファンクバンド
1979年3月活動開始。1982年にアルバム『南蛮渡来』を発売。1983年から1985年にかけては江戸の精神的不調により活動休止。1989年にはアルバム『それから』でBMGビクターよりメジャーデビュー。1990年1月27日江戸の入浴中の事故死により、解散した。
== 来歴 ==
1979年3月8日、上馬ガソリンアレイにて初ライブを行う。この時の名称は『江戸&じゃがたら』。『エド&じゃがたらお春』、『財団呆人じゃがたらお春』、『財団法人じゃがたら』などと名称はライブを行うごとに徐々に変化。1980年頃から江戸が流血、放尿、ニワトリやシマヘビを生きたまま食いちぎるなどの過激なパフォーマンスを行い、それがエログロ的な関心を集め週刊プレイボーイなどの一般誌に取り上げられた。
1981年、自らのレーベル・アグリーオーファンレコードより、1st.シングル『LAST TANGO IN JUKU』をリリース。初の関西ツアーを行う。パフォーマンス目当ての客でどこでも大入りになるが、江戸は音楽がまともに聞かれない状況に嫌気がさし、このツアー以降、音楽だけで勝負する決意をする。9月にギターにOTOが参加しファンクアフロビート色を強め、バンド名を『暗黒大陸じゃがたら』に改称する。
1982年、1stアルバム『南蛮渡来』を発表。中村とうよう渋谷陽一らに絶賛され、初期の過激なパンクロックとこれ以降のファンク・アフロ・レゲエなどの要素が混淆した独特の音楽性は、プレスにおいても純粋に音楽的な評価を受けた。10月「ヤングタッチ」(東京12チャンネル)に出演、生放送ライブ中のスタジオに突然G.I.S.M.の横山SAKEVIらが乱入、江戸と乱闘になる。同月「渋谷陽一のサウンドストリート」(NHK-FM)に出演。多数のライブに出演し、以前のエログロイメージを吹っ切るかのように音楽中心の活動を展開した。
1983年、『じゃがたら』へバンド名を改称。駒場のマンションの屋上に専用の「じゃがたらスタジオ」を作る。町田町蔵らをゲストに迎え、そのスタジオでレコーディングした8インチEP『家族百景』をリリース。日比谷野外音楽堂で行われたイベント「天国注射の昼」に出演するなど精力的な活動を繰り広げるが、11月の関西ツアーの途中から江戸が精神疾患を患い、ライブをすっぽかす、ライブ中に急に歌わなくなる、ナベ以外のメンバーとは一切会話をしなくなる等の奇行を繰り返し、翌年から入院する為休養期間に入る。なお、江戸の休養中、バンドは解体の危機に瀕するもOTOを中心に『じゃがたら2世』として活動を続行し、江戸の復帰を待ち続けた。
故郷の高知県中村市(現四万十市)で静養に努めていた江戸は映画監督・山本政志の尽力もあり、1985年に日比谷野外音楽堂で行われたイベント「アース・ビート伝説'85」で復帰。そして、江戸の発病前後のライブの模様がアルバム『君と踊りあかそう日の出を見るまで』として発表される。
1986年から江戸が東京で暮らす準備ができ、本格的に活動再開。11月の六本木インクスティックでのライブでは以前のイメージとは結びつきそうになかった全員赤の揃いのジャケット姿で登場。12月「ライブ・ジャック」(フジテレビ)に出演。なお、1986年頃からライブや作品で『JAGATARA』とバンド名をクレジットするようになる。
1987年にアルバム『裸の王様』、『ニセ予言者ども』、山本政志の映画「ロビンソンの庭」サントラなど矢継ぎ早に作品を発表。4時間踊りっぱなしのライブ「DANCEMANIA 4 HOURS」(渋谷パルコ・パート3)、MUTE BEATトマトスS-KENと共に、シリーズ・イベント「東京ソイソース」(インクスティック芝浦ファクトリー)を開催。東京ソイソースでは、ライブとライブの間にDJが入るという初めての試みをし、いとうせいこう&タイニー・パンクスランキン・タクシーなども出演した。その他多数のライブ、学園祭等に出演し観客動員も急上昇する。また、横浜寿町フリーコンサートにも数度参加している。〔1979年〜1987年までの来歴は、『南蛮渡来』再発LP付録(CD『君と踊りあかそう日の出を見るまで』に再録)の バイオグラフィー「黒い種馬1979-1987」八木康夫(ヤギヤスオ)著を参照。〕
1989年にアルバム『それから』でついにBMGビクターよりメジャーデビュー。ミュージック・マガジンの1989年・日本のロック部門で1位に選ばれるなど高い評価を得た。同年末にはわずか3曲入りのアルバム『ごくつぶし』を発表。
さらにアフリカなどのミュージシャンとのコラボレーション・アルバム『おあそび』をレコーディング中(江戸の死後リリース)の翌1990年1月27日、江戸が入浴中に溺死するという事件が発生。中心人物の欠落によってバンドは解散した。なお江戸は死去直前にバンド脱退を申し出ていた。〔陣野俊史著「じゃがたら」(河出書房新社)より〕
その後、1992年4月8日にはナベが急性肺炎で、1992年12月9日には篠田が心筋梗塞で相次いで世を去った。
なお、1990年(日比谷野外音楽堂)、1991年法政大学学生会館)、1993年渋谷ON AIR)、2000年下北沢CLUB QUE)、2003年新宿ロフト)、2004年(新宿ロフト、下北沢SHELTERCLUB CITTA')とメンバーが参加する追悼ライブが開催されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「JAGATARA」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jagatara 」があります。




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