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橋蕤 : ミニ英和和英辞書
橋蕤[はし, きょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 

橋蕤 ( リダイレクト:橋ズイ ) : ウィキペディア日本語版
橋ズイ[きょう ずい]

橋 蕤(きょう ずい、? - 197年)は、中国後漢時代末期の軍人。『三国志書では、「喬蕤」と表記されている。
== 正史の事跡 ==
袁術配下。張勲と共に若年の孫策を高く評価していたという。
初平4年(193年)3月、袁術が揚州刺史の陳温を殺害し、陳瑀を追放して揚州に拠点を移すと、張勲と共に大将軍に任じられたとされる。建安2年(197年)春、袁術が皇帝を僭称したときも、これに従った。
袁術の皇帝僭称後まもなく、橋蕤は袁術の命令で張勲と共に呂布を攻撃した。しかし、陳珪の離間策により友軍の楊奉韓暹に裏切られて敗北した。この時、橋蕤は呂布軍に生け捕られてしまったが、なぜか釈放されて袁術の下に帰されている。同年9月、橋蕤は袁術の陳国進攻に従い、陳王の劉寵を滅ぼした。
しかし、曹操が自ら討伐に出てくると、袁術は橋蕤に加え、李豊梁綱楽就の3将を陳国に残留させ〔『後漢書』袁術伝によると、張勲も留まったとされる。〕、自分だけ淮南へ逃げ帰ってしまった。橋蕤は曹操軍を迎撃したものの大敗し、于禁に討ち取られている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「橋ズイ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Qiao Rui 」があります。




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