翻訳と辞書
Words near each other
・ 韓昌勳
・ 韓昌祐
・ 韓明カイ
・ 韓明フェ 〜朝鮮王朝を導いた天才策士〜
・ 韓明淑
・ 韓明澮
・ 韓明澮 〜朝鮮王朝を導いた天才策士〜
・ 韓星航空
・ 韓景職
・ 韓暁鵬
韓暹
・ 韓曁
・ 韓有美
・ 韓服
・ 韓末淑
・ 韓東元
・ 韓東賢
・ 韓松
・ 韓林児
・ 韓果


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

韓暹 : ウィキペディア日本語版
韓暹[かん せん]

韓 暹(かん せん、? - 197年)は、中国後漢時代末期の武将。并州の人と見られる。
== 正史の事跡 ==
当初は河東郡の白波軍(白波賊・河東黄巾党)の頭領で、黄巾の乱の時は黄巾軍に呼応して、各地で暴れ回ったと言われている。仲間の頭領には、李楽胡才がいて、李傕配下の楊奉もかつては白波軍であった。
興平2年(195年)、献帝長安から脱出した時、李傕・郭汜両名の追撃に遭ったが、楊奉・董承から招聘された韓暹は、李楽・胡才とも協力し、献帝を護衛した。同年12月、洛陽への途上の安邑で、献帝から征東将軍に任じられた(『三国志』魏書董卓伝による。『後漢書』董卓伝によると、この時に征東将軍に任命されたのは胡才である)。
建安元年(196年)7月、無事に献帝を守り抜いて洛陽に入城し、翌月にはその功績から大将軍の位を授与された。だが、韓暹は得た官位をいいことに、仲間や部下の盗賊達を好き勝手に官職へ任命したため、董承と対立したという。やがて、献帝が曹操の元で庇護を受けるようになると、正統性を喪失した韓暹は楊奉と共に定陵方面で略奪を働かざるを得なくなり、そこを曹操軍に衝かれて撃破された。このため韓暹は楊奉と共に袁術の下へ落ち延び、その部将となった。
建安2年(197年)、袁術の呂布討伐に従うが、呂布の命を受けた陳珪から好条件を餌として説得されると、楊奉と共に呂布軍へ寝帰った。また袁術軍の将軍十数名を斬り殺す活躍を見せ、これを撃ち破った。その後、呂布の命で海西に駐屯し略奪を繰り広げていたが、彼らの軍勢を奪う目的で接近してきた劉備の策略で、楊奉が殺害されたため、韓暹は命からがら逃げ出した。しかし、韓暹も故郷と思われる并州に逃げ戻る途中、旧友で沛郡杼秋県屯帥(県尉)でもある張宣の討伐を受け、殺害されてしまった。その首級は劉備の下に届けられたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「韓暹」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.