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樺美智子 : ミニ英和和英辞書
樺美智子[かんば みちこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かば]
 (n) birch
: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

樺美智子 : ウィキペディア日本語版
樺美智子[かんば みちこ]
樺 美智子(かんば みちこ、1937年11月8日 - 1960年6月15日)は、学生運動家。安保闘争で死亡した東京大学の女子学生。
曽祖父鳥取県出身の数学者で、数学教育近代化の先駆的役割を果たした樺正董〔『鳥取県百傑伝』274頁に「彼は、いまでは県人から忘れ去られようとしている。ただ、八年前の三十五年六月の安保闘争のとき、圧死した東大女子学生だった樺美智子さんを知らぬ者は少ないであろう。正董は美智子さんの曽祖父にあたるのである。」とある〕。父は神戸大学教授、中央大学教授、東京外国語大学教授などをつとめた社会学者の樺俊雄樺俊雄の墓 〕。
== 人物 ==
東京に生まれた。2人の兄がいる。中学から父の神戸大学赴任にともない兵庫県の芦屋に移る〔『週刊新潮』(2010年6月17日号)46頁〕。
芦屋市立山手中学校兵庫県立神戸高等学校を卒業後、一浪して研数学館へ通った〔遠藤周作エッセイ集『わが青春に悔いあり―狐狸庵閑話』(角川文庫)〕のち、1957年東京大学文科二類に入学(同級生には歴史学者の長崎暢子などがいる)。
1957年11月の誕生日に日本共産党に入党した。その後共産主義者同盟(ブント)の活動家(書記局員)として1960年の安保闘争に参加する〔福間良明 『「戦争体験」の戦後史 世代・教養・イデオロギー中公新書 1990 ISBN 978-4121019905、117p〕。なお、高木正幸は樺がブント創設以来の活動家であったことを自著で紹介している〔高木正幸 『全学連と全共闘』 講談社現代新書 771 ISBN 4061457713、52p〕。76名が検挙された1960年1月26日の全学連羽田空港占拠事件の時に検挙され拘置所に入った事があるがこの時は不起訴処分となっていた(東京大学文学部自治会副委員長として参加している〔合田一道 『激動昭和史現場検証 戦後事件ファイル22新風舎文庫 こ-118 ISBN 978-4797498523、238p〕)。同年6月15日のデモで全学連主流派が衆議院南通用門から国会に突入して警官隊と衝突した際に〔警官隊、デモ隊あわせて約1000人が重軽傷を負った。〕死亡した。。
死亡当日は、淡いクリーム色のカーディガンに白のブラウス、濃紺のスラックス姿だった〔『週刊新潮』(2010年6月17日号)46頁〕。
警察病院検死では死因は胸部圧迫及び頭部内出血となっている。これについて警察側は転倒が原因の圧死と主張し、学生側は機動隊の暴行による死亡と主張した〔評論家落合信彦は、著書の中でソ連KGBによる謀略工作(樺美智子を標的に殺害したとする)の経緯を詳しく述べている。〕。。
6月15日の事件はラジオでも実況中継され、樺美智子の死は多くの人に衝撃を与えることとなった。樺美智子の学友であった木村愛二は2000年に開かれた60年安保を回顧する座談会の中で、「樺美智子は、普段はデモに来なかったのに、あの日に限ってデモに来たんです」と回想している(新宿ロフトプラスワンにて)。また、事件当日に、樺が所属していた国史研究室の先輩にあたる伊藤隆(当時修士2回生)と、「卒論の準備は進んでいるか」「今日を最後にするからデモに行かせてほしい」「じゃあ、それが終わったら卒論について話をしよう」という会話を交わしている〔伊藤隆 『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想中公新書 2317 ISBN 978-4121023179、16p〕。
樺の死因について山本夏彦はコラムで以下のように述べている。中略した部分は山崎博昭の死因について触れた部分である〔山本夏彦 『毒言独語』 中公文庫 [や-19-4] 、80-81p/『毒言独語』 中公文庫 [や-19-16] ISBN 4122042623、80-81p〕。
石原慎太郎は樺の死について雑誌『展望』に寄稿した際、「自分で自分を踏み殺した女子学生」と表現したところ、その論旨にいかにも共鳴したといっていた編集者が、この言い回しだけはどうしても抵抗を感じると言い出した。石原は譲らずに通したが、出来上がった雑誌にはこの部分が削除されていたことを回想している〔石原慎太郎 『国家なる幻影〈上〉 わが政治への反回想文春文庫 [い-24-3] ISBN 4167128047、35p〕。
母・光子による遺稿集『人しれず微笑まん』(1960年三一書房 ISBN 4380600025〕)と書簡集『友へ―樺美智子の手紙』がある。また雑誌『マドモアゼル』が生前の樺美智子に最後のインタビューを行った。光子は、デモに向かう美智子に対して「警官を憎んではいけない。自分たちよりも条件の悪い、貧しい育ちの青年が多い。その人たちを敵と思ってはいけない」と諭したと、鶴見俊輔が元『朝日ジャーナル』編集部員である村上義雄のインタビューで語っている〔村上義雄 『「朝日ジャーナル」現代を撃つ』 朝日新書 208 ISBN 978-4022733085、18-19p〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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