翻訳と辞書
Words near each other
・ 樺南県
・ 樺型駆逐艦
・ 樺太
・ 樺太1945年夏 氷雪の門
・ 樺太の主な山岳
・ 樺太の地理
・ 樺太の廃止市町村一覧
・ 樺太の戦い
・ 樺太の戦い (1905年)
・ 樺太の戦い (1945年)
樺太の競馬
・ 樺太の鉄道
・ 樺太アイヌ語
・ 樺太・千島交換条約
・ 樺太・落合強盗殺人事件
・ 樺太・西柵丹強盗殺人事件
・ 樺太丸
・ 樺太作戦
・ 樺太出身者の一覧
・ 樺太医学専門学校


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

樺太の競馬 : ミニ英和和英辞書
樺太の競馬[からふとのけいば]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かば]
 (n) birch
競馬 : [けいば]
 【名詞】 1. horse racing 
: [うま]
 【名詞】 1. (1) horse 2. (2) promoted bishop (shogi) 

樺太の競馬 : ウィキペディア日本語版
樺太の競馬[からふとのけいば]

この項では日本の植民地時代の樺太競馬について扱う。
樺太の競馬は明治末に豊原真岡大泊久春内などの神社で7月から8月に行われる祭礼の余興として始まり、次第に拡大し1923年(大正12年)馬券の発売が始まった。樺太の競馬は、やがて神社祭礼から離れてギャンブルとなっていった。樺太では、馬券発売や競馬場に法的な規制がほとんどなかったため、人口が30万人前後だった1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)ごろには、南樺太全体で大小20余りの競馬場が存在し、馬券を無制限に発売して(人口からすると)盛んにおこなわれていた。1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)ごろの樺太の各競馬場では、八百長や払戻金の不正などが横行したという。1932年(昭和7年)樺太庁では、競馬場のあまりの乱立と無節操ぶりに内地の地方競馬規則と同等の樺太競馬規則を定め、馬券を発売できる公認競馬場を制限し、馬券発売も制限し厳しく取り締まった。このため樺太では、1932年以降の馬券発売が出来る競馬は8つの公認競馬場でのみ断続的に行われ、公認された8か所以外の競馬場では、以前のように神社の祭礼の余興として馬券を売らない草競馬として催された。樺太は寒さが厳しいため、春競馬は6月と7月に行われ、秋競馬は8月と9月に行われ、遅くても10月半ばまでにシーズンを終えた。毎年10月半ばから翌年5月までは、樺太では競馬は開催されていない。
==歴史==
1905年(明治38年)のポーツマス条約によって、北緯50度線以南の樺太が日本に割譲された。割譲の翌年1906年(明治39年)には、すでに大泊で小規模ながら競馬場が設けられ〔新撰大泊史、294頁。〕、1911年(明治44年)豊原などで神社の祭礼の余興として競馬が始まった。1911年(明治44年)には、南樺太全体で樺太庁から補助金を受け取る競馬団体(公認団体)は3つあり、それが次第に増えていき、1923年(大正12年)では5つ、1929年(昭和4年)には補助金団体(競馬場)は8つに増えている。
1943年(昭和18年)までの樺太は、内地とは異なる異法地域であり、内地の法律は自動的に適用はされず(樺太庁が独自に施政し、樺太住民には日本の国政選挙の投票権はない)、内地の法律を樺太で適用するには「勅令」が必要だった〔全国樺太連盟『樺太沿革行政史』1978年、594頁〕〔工藤 信彦『わが内なる樺太』石風社、2008年、252-259頁〕。大正12年に内地で馬券が発売許可されたのを見て樺太でも馬券を発売し始めたが〔『樺太日日新聞』1923年8月9,16日〕、内地で適用されていた競馬法(旧競馬法)や地方競馬規則は樺太では適用されなかったため、非公認の小さな競馬場でも制限されることなく馬券発売を行うことが出来た。
1927年(昭和2年)の内地の地方競馬規則では、馬券の発売枚数は一人1レースに付き1枚(1枚2円)、馬券を発売する競馬場は1周1000メートル以上の馬場が必要と規定されたが、樺太では競馬に何ら制限がなく、客は馬券を買いたいだけ買えた。1929年(昭和4年)の時点では人口が30万人に満たない樺太全体で非補助金団体によるものを含めて大小20あまりもの競馬場があったという〔外地及満洲国馬事調査書、198-199頁。〕。樺太日日新聞によれば樺太では田舎の鎮守(村の守り神である小さな神社)の祭礼でも競馬が開催されて馬券が発売され、しかもどこの競馬も盛況だったという〔『樺太日日新聞』1930年9月3日〕。それらの競馬ではインチキ(樺太日日新聞の表記のママ、八百長や払戻金のごまかし)が横行したという。競馬場のあまりの乱立とインチキの横行には、競馬に鷹揚だった樺太庁もさすがに問題を感じた。樺太庁自身、1932年(昭和7年)までは樺太の競馬には統制は無かったと認めている〔『樺太日日新聞』1932年7月3日〕。このため樺太庁は1932年(昭和7年)6月、内地の地方競馬規則に準じる内容の樺太競馬規則を定めた〔『樺太日日新聞』1932年7月28日〕。馬券を売れる公認競馬場を1支庁・出張所ごとには1か所と決め〔、1931年(昭和7年)では支庁・出張所は9つのため、豊原大泊恵須取知取留多加泊居敷香真岡の8つの競馬場が公認された(本斗の競馬場も公認競馬場に予定されたが、本斗競馬場では規則を満たす1周1000メートルの大きさの馬場が作れなかったため公認されなかった)〔『樺太日日新聞』1932年7月28日〕。一人1レースに付き1枚の馬券の枚数制限は売り上げの大幅な減少になり、樺太の競馬に大打撃を与えた。樺太競馬規則施行直後の知取や敷香の競馬は赤字になり、それを見た各地の競馬場は競馬を中止する〔『樺太日日新聞』1932年7月1,3,7,10,12,21,26日〕。
1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)ごろには20余りを数えた樺太の競馬場での競馬開催回数は、1932年(昭和7年)の樺太競馬規則施行後には激減する。樺太日日新聞では、人口の少ない樺太で人口の多い内地と同じ競馬規則(一人1レースに付き1枚の馬券の枚数制限)を適用したら競馬場の経営が成り立たないと説明している〔『樺太日日新聞』1932年7月21日〕。
1933年(昭和8年)には内地の地方競馬規則が改正され、馬券は1人1レースに付き1枚が2枚になり、開催1日当たりの最大レース数も12回から14回に拡大された。これを受けて樺太の競馬会は樺太競馬規則の改正を願い出る〔『樺太日日新聞』1933年7月6日〕。樺太庁では一時の樺太競馬界の無節操ぶりから渋るが、結局1934年(昭和9年)に樺太競馬規則は内地の地方競馬規則と同等に改正された〔帝國馬匹協會 編「外地法規 樺太 競馬規則」昭和9年6月改正 樺太庁令第12号改正『馬政関連法令』帝國馬匹協會、1938年、1617-1623頁〕。
これを受けて樺太の競馬では1日に14レースを行い、馬券は1人1レースに付き2枚まで発売されるようになったが、樺太競馬規則施行直後の1932年(昭和7年)ばかりではなく、わずかに規制が緩んだ昭和9年以降も樺太の競馬は混乱が続き、豊原大泊恵須取知取留多加泊居敷香真岡の8つの公認競馬場も順調に開催できたわけではない。
1935年(昭和10年)に発行された『外地及満洲国馬事調査書』によれば、樺太競馬規則施行翌年の1933年(昭和8年)では恵須取競馬会、知取競馬会、樺太競馬会(豊原)、留多加競馬会で馬券を伴う競馬が行われ、恵須取では春2日間、秋3日間競馬が開催され、知取競馬会、樺太競馬会(豊原)、留多加競馬会では秋だけ各3日間競馬が行われ、1933年(昭和8年)秋のシーズンでは4か所の競馬場合計で96レース、入場者は1万3千人あまりになっている。〔外地及満洲国馬事調査書、201-203頁。〕。大泊、敷香、泊居、真岡ではこの年は開催できなかった。
これら樺太庁公認の8競馬場では、その後も不安定な状態でありながらも断続的に競馬は行われている。
新聞報道で確認できるものでは、1936年(昭和11年)では大泊、豊原、敷香、真岡、泊居〔『樺太日日新聞』1936年6月14,19日、7月12,17,18,19,22日、8月11,17,28日〕、1941年(昭和16年)では恵須取、豊原、大泊、知取などで競馬が開催されている〔『恵須取毎日新聞』1941年6月19日、8月17日〕〔『樺太日日新聞』1941年7月1,16,24,27日、9月4,14〕。(ここに記載していない他の年、他の競馬場ではすべて競馬が開催されなかったということではない。資料が乏しいため調査が及んでいないだけである)
1941年(昭和16年)には馬券の制限が一人1レース3枚に拡大し〔『樺太日日新聞』1941年6月5日〕、1942年(昭和17年)には内地と同様に馬券税が導入された〔全国樺太連盟『樺太沿革行政史』1978年、793頁〕。1945年(昭和20年)8月には樺太はソ連軍の侵攻を受け、これをもって樺太の競馬の歴史は終わりになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「樺太の競馬」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.