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楊儀 : ミニ英和和英辞書
楊儀[よう ぎ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よう, やなぎ]
 【名詞】 1. willow 2. slim
: [ぎ]
 【名詞】 1. rule 2. ceremony 3. affair 4. case 5. matter 

楊儀 : ウィキペディア日本語版
楊儀[よう ぎ]
楊 儀(よう ぎ、? - 235年)は、中国後漢末期から三国時代の人物。威公荊州襄陽郡の人。兄は楊慮。諸葛亮北伐時、その幕僚として重要な任務を担当した。諸葛亮の死後、魏延とその後継を争い彼を殺したが、後に失脚し自殺した。
==略伝==
かつては、曹操に仕えた傅羣(荊州刺史)の主簿であった。しかし、関羽を慕っていたことからその下に降り、功曹に採り立てられた。後に劉備の下へ使者として赴き、気に入られて左将軍府の兵曹掾となった。219年、劉備が漢中王になると尚書となった。しかし221年に劉備が即位すると、上司の劉巴と喧嘩して弘農太守に左遷された(太守ではあるが、弘農郡は魏の領地である)。しかし、諸葛亮が彼の才幹を高く評価していたため、劉備亡き後に再び採り立てられ、丞相参軍(幕僚)・丞相長史(幕僚長)と累進し、諸葛亮の補佐に当たった。
諸葛亮の出征時、事務処理に優れていた楊儀は、丞相府の幕僚の筆頭として、部隊編成の計画立案・軍需物資の確保などの重要な任務を滞りなく処理した。ただ、狭量で自分の才覚を鼻にかけるようなところがあったため、魏延と仲が悪かった。軍議の場で両者が言い合いになると、魏延が白刃で楊儀を脅し、楊儀がこれを恐れて泣くような時もあったという。諸葛亮は、楊儀の才能を深く惜しみ、同時に魏延の勇猛を頼りとしていたため、どちらかを罷免するに忍びず、2人が不仲なことに心を痛めていた。
234年、諸葛亮が五丈原との対峙中に病死すると、楊儀は諸葛亮の遺言に従って諸将を統御し、全軍撤退を成功させた。この時、魏延は撤退命令に従わなかった上、兵を挙げて楊儀を討とうとしたが、他の諸将らが諸葛亮の遺命に従って楊儀に味方し、魏延配下の兵士までもが彼を見捨てたため、軍が四散してしまう結果になった。魏延は息子達と漢中に逃げたが、その途中で楊儀の命を受けた馬岱の軍勢によって殺害された。『三国志書魏延伝によると、楊儀は届けられた魏延の首を踏みつけ「愚か者め、もう悪事はできまい」と言ったという。
楊儀は諸葛亮の死後、長年の実績と政敵の魏延を討ち取ったことから、自分こそがその後継者に相応しいと考えていた。ところが諸葛亮の後継者には、留府長史として後方勤務を務めてきた蒋琬が選ばれ、尚書令益州刺史という要職に任命されたのに対し、楊儀は統括する部署のない中軍師に任命されたのみで、職務もないという状態であった。これは諸葛亮がその生前、楊儀の能力については評価していたものの、その狭量すぎる性格を問題視し、自らの後継者には彼ではなく蒋琬を密かに指名していたからであった。〔さらに言えば、そもそも蜀に下った理由も競争相手の多い魏より全体的に人材難である蜀なら重用されるであろうという打算もあった。-内田重久「それからの三国志」より〕
楊儀はそれまで蒋琬のことを、経歴・実績のいずれも自分の後塵を拝してきたと考えていたため、この処遇に大きな不満を覚え、費禕に対し「かつて丞相(諸葛亮)が亡くなった際に、軍を挙げて魏についていたら、こんな風に落ちぶれる事はなかったろうに」と漏らした。費禕がその内容を劉禅に密告すると、楊儀は庶人に落とされ漢嘉郡に流罪となった。ところが楊儀は、流刑地から他人を誹謗する激越な内容の上書を送り続けた。このためついに劉禅らが楊儀を拘束させると、楊儀は自殺したといわれる。その後、妻子は成都に戻ることを許された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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