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森徳治 : ミニ英和和英辞書
森徳治[もり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [もり]
 【名詞】 1. forest 

森徳治 ( リダイレクト:山下徳治 ) : ウィキペディア日本語版
山下徳治[やました とくじ]

山下 徳治(やました とくじ、1892年1月15日 - 1965年7月10日)は、日本の教育学者。改姓後は森 徳治と称した。戦前の新自由教育運動の中で、欧州、ソビエト連邦への留学、視察を通じて獲得した労働教育を中心にした教育理論の移入を図った。また、生前のヴィゴツキーに会った唯一の日本人として知られている。
== 経歴 ==
鹿児島県徳之島生まれ。鹿児島第一中学校から教師を志し、1913年鹿児島師範学校卒業。鹿児島市西田小学校教諭。1920年小原國芳に招かれ、成城小学校教諭となる。同校長澤柳政太郎の勧めでドイツマールブルク大学に留学し、ナトルプの指導のもとにペスタロッチの教育論を研究対象とする。ここで、デューイの教育論がペスタロッチの教育論の水準を追い抜いていることを発見。また、イェンシュの直観像理論を学ぶ。さらにソビエト連邦にわたり、教育視察を実施し、1927年帰国。
成城学園初等学校主事、高等学校ドイツ語教授を経て、澤柳没後自由学園に転任。1929年後藤新平の援助を得て二回目の渡欧を行う。ダルクローズリトミック、ボデーの芸術体操を見学し、再びソビエト連邦にわたる。パブロフの実験室を訪ねる。また、文部委員ルナチャルスキー、ヴィゴツキー、ルイゼ、シャツキーバーソフらと意見交換する。後藤とともに労働大学を立ち上げる計画があったためであるが、これは後藤の死没により実現しなかった。なお、ヴィゴツキーとはルリヤとともにイェンシュ学説の検証実験に立ち会うこととなった〔『ルリヤ現代の心理学』天野清訳、文一総合出版、1980年に実験成果である「直観像」研究の記録がある。〕。同年『新興ロシアの教育』を著す。
1930年8月新興教育研究所の創設に参加し、主管となる。同年より『新興教育』の発行に参加。1931年頃より日本資本主義発達史講座の第4巻「教化史」を執筆。1933年より岩波書店の『教育』の編集部員となる。1936年からは雑誌『教育』の編集陣の関係活動として地理教育研究会および数学教育研究会に参加し、1937年教育科学研究会発足当時は科学教育研究部会の委員をつとめた〔城戸幡太郎著『教育科学七十年』北大図書刊行会、1978年〕。また、育生舎の編集長をつとめる。さらに、池貝鉄工所の労働部長に就任し、城南中小企業徒弟教育要領を編集した。1941年森姓となる。1945年鹿児島へ転居、農業に従事する。1949年再度東京に戻る。全国の健民少年団の理論指導を行う。1962年日本スポーツ少年団の創立に際しては、本部委員に就任。教育理念の骨子の作成に携わった〔「小特集 森徳治追悼」明治図書出版『ソビエト教育科学』第22号、1965年〕〔1964年に公表された「スポーツ少年団の哲理」の作成委員として1963年に第1次草案を構成した。『日本スポーツ少年団50年史』公益財団法人日本体育協会日本スポーツ少年団、2013年〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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