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森川信 : ミニ英和和英辞書
森川信[もりかわ しん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [もり]
 【名詞】 1. forest 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 

森川信 : ウィキペディア日本語版
森川信[もりかわ しん]

森川 信(もりかわ しん、1912年2月14日 - 1972年3月26日)は、昭和時代に活躍した俳優コメディアン。本名は、森川義信。元妻は女優の水戸光子
男はつらいよ」の初代おいちゃん役の俳優として現在ではよく知られているほか、江利チエミ主演の「サザエさん」シリーズの波平役でも有名である。コミカルな演技が多く、映画・演劇界で大いに活躍した。
== 略歴 ==
神奈川県横浜市南区に出生。横浜市立商業学校卒業。銀行に勤める傍ら、役者になるために演劇学校に通う。
1931年に遠戚にあたる俳優・静香八郎と共に俳優の道へ。1932年に静香八郎主演「肉弾三勇士」に死体役としてデビュー。その後、一座を組んで浅草で芝居等を試みるが、浅草演劇界では既にエノケンこと榎本健一とロッパこと古川緑波が君臨し、競合を余儀なくされた。
その後、大阪名古屋京都博多など各地を転々とする。この頃はシミキンこと清水金一や、田崎潤淀橋太郎などを知る。大阪を活動の拠点とし、東京の浅草に対抗した。1934年に「森川信一座」を結成し座長となる。戦中期は大陸へ赴き、各地で慰問も行った。この頃に演技能力が坂口安吾に絶賛された。1943年に松竹と契約、山茶花究らを知る。1948年より数年間岸井明と「のらくらコンビ」を組み、コミカルな演技で人気を得る。
若い頃はかなりのモテぶりで、遊郭で遊ぶよりも、こちらから女性が何人も寄ってくるというほどだった。「モノがいいだけだろ」とやっかむ喜劇俳優仲間に対し、森川は「女に金を使うんじゃなく、女が金を使ってくれる方が一流だ」と言って、やっかみなど何処吹く風だったという。
1953年にフリーとなり、シリアスからコミカルな演技までこなすようになる。やがて、テレビが誕生し、テレビでの出演も多くなってきた。60年代以降、新宿コマ劇場での喜劇が評判となり、コマ劇場での主導的な立場となっていった。1963年には渥美清主演「拝啓天皇陛下様」に出演、1966年にはTBS系列の「サザエさん」の波平役として出演し、作品自体が舞台でシリーズ化され森川の代表的な作品の一つとなった。
1968年より始まったテレビドラマ「男はつらいよ」のおいちゃん(車竜造)役を演じ、コミカルな演技で人気を博す。後に69年に映画化された際、主演の渥美清を除いてキャストが一新された中で森川のおいちゃん役はそのまま続投する。映画は大好評で後に日本映画史上に名を残す作品となった(特に森川の死後おいちゃん役は3代入れ替わったが監督の山田洋次曰く寅さんとの絡みの中で「バカだねぇ…」と吐きながらコミカルにたち回れたのは森川のみと語っている)。第八作「男はつらいよ 寅次郎恋歌」(1971年)まで出演。「男はつらいよ」シリーズも人気シリーズになりかけていた頃、かねてから患っていた肝硬変が悪化し、1972年に死去。60歳だった。臨終の床には三崎千恵子倍賞千恵子ら共演者がかけつけ「死なないで!」と号泣したという。
墓所は横浜市西区久保山墓地に在る〔 横浜市西区公式サイト〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「森川信」の詳細全文を読む




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