翻訳と辞書
Words near each other
・ 桂陽県
・ 桂陽駅
・ 桂雀々
・ 桂雀々の大判小判がじゃくじゃく
・ 桂雀三郎
・ 桂雀五郎
・ 桂雀喜
・ 桂雀太
・ 桂雀松
・ 桂雛菊
桂離宮
・ 桂雪路
・ 桂音也
・ 桂順姫
・ 桂香院
・ 桂馬
・ 桂駅
・ 桂駐屯地
・ 桂高丸・菊丸
・ 桂高校


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

桂離宮 : ミニ英和和英辞書
桂離宮[かつらりきゅう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けい, かつら]
 (n) (abbr) knight (shogi)
離宮 : [りきゅう]
 【名詞】 1. villa (imperial) 

桂離宮 : ウィキペディア日本語版
桂離宮[かつらりきゅう]

桂離宮(かつらりきゅう)は、京都市西京区桂にある皇室関連施設〔宮内庁サイト 〕。江戸時代の17世紀に皇族の八条宮の別邸として創設された建築群と庭園からなる。面積は約7万平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルである〔(京都新聞、2004)、p.13〕。離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意であるが、「桂離宮」と称するのは明治16年(1883年)からで、それ以前は「桂別業」などと呼ばれていた〔(大和、1993)、pp.84 - 88〕。江戸時代初期の造営当初の庭園建築物を遺しており、当時の朝廷文化の粋を今に伝えている。回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。庭園には茶屋が配されている。現在は宮内庁京都事務所により管理されている。
参観には宮内庁京都事務所に事前申込みが必要(外部リンクの参観案内参照)。
== 概要 ==
桂離宮は京都市の西郊、桂川西岸の旧・下桂村に位置する。ここは桂川とかつての山陰道(丹波街道)が交わる、交通の要衝であった。川と道の交点にはかつては「桂の渡し」があり、現在は桂大橋が架かる。〔(大和、1993)、p.84〕
桂の地は、古くから貴族の別荘地として知られ、平安時代には藤原道長の別荘(当時は「別業」といった)である桂殿が営まれていたという。また、『源氏物語』「松風」帖に登場する光源氏の「桂殿」はこの地にあったという設定である。物語に登場する冷泉帝は「月のすむ川のをちなる里なれば桂の影はのどけかるらむ」という歌を詠んでいる〔(大和、1993)、p.87〕〔(渡辺、2010)、pp.77 - 78〕。この地は風流な観月の名所としても知られていた。桂離宮の近くの西京区松室には月読神社があり、桂の地名も中国語の「月桂」の故事から来ているという。こうした地にある桂離宮には、観月のための装置という意味合いがある。それとともに、池での舟遊び、庭に点在する茶屋を用いての茶会、酒宴など、さまざまな遊興や行事の場としての機能があり、単なる鑑賞のための庭ではなかった。〔(大和、1993)、p.87〕〔(京都新聞、2004)、p.40〕
桂離宮は最古の回遊式庭園として知られ、庭園と建物が一体となって、日本的な美を形成している。ブルーノ・タウトヴァルター・グロピウスといった、外国の建築家も桂離宮を、簡素さの中に美と深い精神性を表した建築及び庭園として高く評価した。作庭者については、古くから小堀遠州とする伝承があるが、遠州自身が作庭を直接差配したとは考えがたい。実際に作庭に携わった可能性のある人物としては、遠州の義弟である中沼左京、遠州の門下である玉淵坊などの名前が挙げられている〔(京都新聞、2004)、pp.114、126〕〔(和辻、1991)、pp.447 - 481〕。昭和8年(1933年)に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは桂離宮の簡素な美を絶賛し、その知名度を国際的に高めたことで知られる。タウトは昭和8年5月と翌昭和9年(1934年)5月に桂離宮を拝観し、その折の所感を著作に記している。古書院の広縁から張り出した竹縁(月見台)から庭園を鑑賞したタウトは、その時の感興を「ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる」(篠田英雄訳)と表現した〔(渡辺、2010)、pp.83 - 86〕〔(日本交通公社出版事業局、1995)、p.68〕。
桂離宮は八条宮家初代の智仁親王1579年 - 1629年)によって基礎が築かれた。智仁親王は正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家(桂宮家)を創設したものである。本邸は京都御所の北側、今出川通りに面して建設され、現存する(ただし築地塀と表門・勅使門だけを残し、建物群は二条城に移築されている)。
桂離宮の書院は「古書院」「中書院」「新御殿」の3つの部分に分かれ、このうち古書院の建設は1615年頃と推定される。書院、茶屋、庭園などの造営は、八条宮家2代の智忠親王1619年 - 1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。八条宮家は常磐井宮、京極宮、桂宮と名前を変えた後、1881年に断絶し、桂離宮は1883年から宮内省の管轄になった。第二次世界大戦後は、宮内庁が管理している。1976年から実施された大修理で、文化庁が調査のため、中書院の地下の発掘作業をしていた時、人工的な池の跡が発見された。そこには桂離宮が造られる以前の遺物が多数見つかっており、智仁親王が発見した桂殿の跡地に造られたとされる証拠となった。
桂離宮の敷地総面積は約7万平方メートルであるが、これには北側の緑地と南側の農地を含んでおり、庭園部分の面積は約5万8千平方メートルである〔(京都新聞、2004)、p.13〕。庭園は多くの入江と複雑な汀線をもつ池を中心とし、池には大小5つの島がある。池の西岸の平坦地には古書院、中書院、新御殿が北東から南西へ雁行形に並ぶ。中書院と新御殿の間には小規模な「楽器の間」がある。これらの建物は一時に建てられたものではなく、元和初年から寛文初年(1615年頃 - 1662年頃)にかけて順次建立されたものである。古書院の西には「御末所」と「臣下控所」、中書院の西には「旧役所」があるが、これらは明治時代に書院群の修理が行われた際に建てられたものである〔(大和、1993)、p.102〕。他の建物としては茶屋として松琴亭、賞花亭、笑意軒、月波楼の4棟、持仏堂の園林堂がある。古記録によれば茶屋は5棟あったが、残り1棟の竹林亭は現存しない〔(京都新聞、2004)、pp.62〕。〔(大和、1993)、pp.84 - 85〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「桂離宮」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.