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栄光の6月1日 : ミニ英和和英辞書
栄光の6月1日[えいこうの6がつついたち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さかえ, はえ]
 【名詞】 1. glory 2. prosperity
栄光 : [えいこう]
 【名詞】 1. glory 
: [ひかり]
 【名詞】 1. light 
: [つき]
  1. (n-t) moon 2. month 
: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 

栄光の6月1日 : ウィキペディア日本語版
栄光の6月1日[えいこうの6がつついたち]

栄光の6月1日(えいこうの6がつついたち、)は、1794年6月1日、大西洋上でイギリス(グレートブリテン王国)と第一共和政下のフランスとの間で行われた、フランス革命戦争における最初にして最大級の海戦である。第3次ウェサン島の海戦とも呼ばれ、フランスにおいてはBataille du 13 prairial an 2または''Combat de Prairial''と称される。「栄光」とはイギリス側が勝利を祝って付けたものであるが、この海戦は英語でもフランス語でも、その場所でなく日付によって呼ばれている。英語名とフランス語名の暦の相違は、当時のフランスが世界共通のグレゴリオ暦でなく独自のフランス革命暦を使用していたためで、フランス側からの呼称は共和暦2年プレリアル13日の海戦()または単にプレリアルの海戦()となる。海戦は、慣例では、通常その最も近い陸地の名か、付近で特徴的な陸標の名によって名づけられるのであるが、この「栄光の6月1日」の場合は、最も近い陸地であるフランス領ウェサン島からも740キロも離れており、関連づけられる陸地が存在しなかった。第3次ウェサン島の海戦(, )という名は、かろうじて最も近い地名を用いたものであるが、ウェサン島付近で行われた英仏間の海戦がアメリカ独立戦争中に2回あったため「第3次」となる。
リチャード・ハウ指揮下のイギリスの海峡艦隊は、フランスがアメリカから、国民生活のために輸入した穀物を搭載した護送船団の航路を阻止する計画を立てていた。この護送軍団の指揮官は提督だった。英仏両艦隊は大西洋上の、ウェサン島の約400海里西(741キロ)の地点で、1794年6月1日に交戦した。
この海戦は1794年5月の大西洋方面作戦の終着点だった。この作戦は、この年の5月に両艦隊がビスケー湾を縦横に横切って、多くの商船や小型の軍艦を拿捕し、一部の艦が交戦したものだったが、艦隊の交戦としては勝負がはっきりしなかった。この戦闘の間、ハウは自らの艦隊にフランスに立ち向かって、個々の艦に、直近の敵艦と交戦して掃射するという命令を出し、海戦の慣習に挑んだ。この予期せぬ命令をすべての艦長が理解したわけではなく、結果として、イギリス艦隊の攻撃は、ハウが意図したものよりも断片的なものとなった。それにもかかわらず、フランス艦隊はイギリス艦は戦術の上では大きな完敗を喫することになった。海戦の後、両艦隊は疲弊し、その後の戦闘ができる状態ではなく、ハウとヴォラレーはそれぞれの母港へ戻った。フランス艦隊は7隻の艦を失ったが、ヴィラレーは、穀物輸送の護送船団が、戦術面での成功を確保したイギリス艦隊に邪魔されることなしに母国に戻れるだけの時間稼ぎをした。しかしヴィラレーは、戦争が終わるまで、イギリスに封鎖作戦をさせたまま、母港に撤退しなければならなかった。開戦直後はそれぞれが勝利を主張し、戦闘の結果は両国の報道機関によって、それぞれの海軍の能力と勇敢さの輝かしさの表れとして称揚された。しかし一方、イギリス艦隊に以後の封鎖作戦を行う余力を残してしまったことで、彼は艦隊を港に留め置かざるを得ないことになった。
栄光の6月1日は、フランス革命戦争の始まりに当たって、英仏の海軍双方に内在するいくつもの大きな問題を示した。両艦隊の提督は、艦長たちの不服従に直面し、乗員は十分な訓練を受けておらず、鍛えられていなかった。戦闘の真っ最中に彼らは艦をうまく制御することができず、乗員と信頼できる士官が不足していたため、より多くの損害を受けた。イギリスでは、多くの士官の指揮が後に疑問視され、うち一人は軍法会議にさえ出廷した。彼の采配はイギリス海軍に消えることのない、苦渋の伝説を残した。
==歴史的背景==
1792年前半から、フランスはオーストリア領ネーデルラントプロイセン王国、そしてイタリア半島サルデーニャ王国と戦闘状態にあった。1793年1月2日、フランス革命戦争が始まってほぼ1年が経った時期、共和主義者たちに占拠されたブルターニュブレストの砦から、イギリス海軍のブリッグ「チルダース」は砲撃を受けた。その後、フランスはイギリスとオランダに宣戦布告し、それらの君主制国家に革命の精神を広めようとしていた〔Williams, p. 373〕。英仏海峡によって直接の侵攻から守られているイギリスは〔Padfield, p. 15〕、1793年が終わるまで、北方の海域や地中海、また、両国がともに植民地を置いた西インド諸島インドにおいて、フランスと小規模な戦闘を繰り返した。
1794年のヨーロッパの状況は不安定なままであった。フランス北方海域にあったフランス大西洋艦隊では、食糧の配給と賃金支払の遅延が原因となって反乱が発生した。必然の結果として、反逆の決定を受けた多くの熟練した水兵が、処刑、収監、あるいは解雇されて姿を消し、フランス海軍将校団は、恐怖政治の影響で大いに苦しむこととなった〔James, p. 122〕。しかし食料の不足は、海軍の問題にとどまるものではなかった。その前年の社会的な大変動に厳しい冬が重なり、フランス全体が飢えていた〔。そしてフランスはすべての隣国と戦争状態にあり、新鮮な食料を陸路で輸入する手立てを持たなかった。結局、国民公会で決定された解決策は、フランスの海外植民地で生産される食料をすべてチェサピーク湾に集められる商船隊に船積みし、さらにアメリカ合衆国からも食物と商品を購入するというものだった〔Tracy, p. 89〕。1794年4月から5月にかけて、商船隊は護送船団を構成し、フランス大西洋艦隊の護衛の下、ブレストまで大西洋を横断することとなった〔Mostert, p. 132〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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