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林芙美子 : ミニ英和和英辞書
林芙美子[はやし ふみこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はやし]
 【名詞】 1. woods 2. forest 3. copse 4. thicket 
: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

林芙美子 : ウィキペディア日本語版
林芙美子[はやし ふみこ]

林 芙美子(はやし ふみこ、1903年明治36年)12月31日 - 1951年昭和26年)6月28日)は、日本小説家。物心ついた小学生時代に貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、ことに名作がある。「文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』、そして、日中戦争から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』など、いつも批判の的になってきました。しかし、戦後の六年間はちがいました。それは、戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」〔井上ひさし太鼓たたいて笛ふいて』(新潮社p.174)没後に行われた『私の本棚』で男子アナが語る前説。〕と言われるように波瀾万丈だった。
== 生涯 ==
当人は、生まれは下関と言い、生年は明治37年、誕生日は5月5日などとも書いて語っていたが、没後20年余り経って、誕生の地は門司市小森江(現、北九州市門司区)との説が発表された〔井上貞邦:『林芙美子と北九州』、北九州市医報(1972年 - 1973年)〕〔井上隆晴『二人の生涯』、光風社書店(1974年)〕。(ただし出生届は叔父の家の現・鹿児島市に明治36年12月31日誕生として翌1月に出ている〔佐藤公平 「林芙美子実父への手紙」 KTC中央出版 (2001/10) 〕〔日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室 林芙美子の年齢
〕。)
実父は宮田麻太郎、母はキク。麻太郎が認知しなかったので、娘は『林フミ子』として、母方の叔父の戸籍に入った。麻太郎は下関で競り売りやテキ屋をやって当て、1907年若松市(現・北九州市若松区)へ移って繁盛したが、浮気して、母子は1910年、番頭の沢井喜三郎と家を出た。養父と母は北九州の炭坑町を行商して回り、芙美子の小学校は長崎佐世保下関と変わった。喜三郎は下関古着屋を営んで小康を得たが1914年倒産し、11歳の芙美子は本籍地の鹿児島に預けられたのち、旅商いの両親に付いて山陽地方木賃宿を転々した。1916年(大正5年)(13歳)、尾道市にしばらく落ち着き、翌年、市立尾道小学校(現・尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業した。
1918年(大正9年)(15歳)、文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)へ進学した。図書室の本を読み耽り、夜や休日は働いた。女学校の教諭も文才を育んだ。18歳のときから『秋沼陽子』の筆名で、地方新聞に詩や短歌を載せた。尾道では親友たちに恵まれ、後年もしばしば「帰郷」した。
1922年(19歳)、女学校卒業直後、遊学中の恋人を頼って上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活し、義父・実母も東京に来てからは、その露天商を手伝った。翌1923年、卒業した恋人は帰郷して婚約を取り消した。9月の関東大震災を、3人はしばらく尾道や四国に避けた。この頃から筆名に『芙美子』を用い、つけ始めた日記が『放浪記』の原型になった。
1924年、親を残して東京に戻り、再び3人の生計を稼いだ。壺井繁治岡本潤高橋新吉小野十三郎辻潤平林たい子らを知った。同棲しては別れることを繰り返した。詩のパンフレット『二人』を、友谷静栄と3号まで出した。原稿を雑誌社・出版社に売り込んで回り、ときに拾われた。
1926年(23歳)、画学生の手塚緑敏(まさはる、通称りょくびん)〔林芙美子の年齢 〕と内縁の結婚をし、落ち着いた。緑敏は実直で、妻の執筆を助ける人であった。
1928年(昭和3年)2月、長谷川時雨主宰の女人芸術誌が芙美子の詩『黍畑』を載せ、10月から翌々年10月まで20回、自伝的小説『放浪記』を連載した。その間の1929年6月には友人の寄金を受けて、初の単行本の、詩集『蒼馬を見たり』を自費出版した。『放浪記』は好評で、1930年改造社刊行の『放浪記』と『続放浪記』とは、昭和恐慌の世相の中で売れに売れ、芙美子は流行作家になった。印税で中国へ一人旅した。講演会などの国内旅行も増えた。
1931年11月、朝鮮シベリヤ経由でパリへ一人旅した。既に満州事変は始まっていた。金銭の余裕があれば旅に出て、向こう見ずな単独行を怖じなかった。ロンドンにも住み、1932年6月に帰国した。旅先から紀行文を雑誌社に送り続けた。
1935年(昭和10年)(32歳)の短編『牡蠣』は、私小説的な作風を離れた本格的な小説として、評価された。
1937年の南京攻略戦には、毎日新聞の特派員として現地に赴いた〔このあたりから戦後にかけての芙美子は井上ひさし『太鼓たたいて笛ふいて』(新潮社)に描かれている。プロデューサー三木孝は、"戦さはもうかるという物語"と芙美子を説得し、従軍記者に仕立て上げる。内閣情報部と陸軍部から派遣され、「太鼓たたいて笛ふいて」お広目屋よろしくふれまわる物語を書くために、各地を従軍した林芙美子が目のあたりにしたものは日本軍による侵略であり、暴挙であった。戦後一転して、まるで贖罪するかのように普通の日本人の悲しみを、生活を、ただひたすらに書きつづけた。〕。1938年の武漢作戦には、内閣情報部の『ペン部隊』の紅一点として従軍し、男性陣を尻目に陥落後の漢口へ一番乗りした(『戦線』、『北岸部隊』)。「共産党にカンパを約した」との嫌疑で、1933年に中野警察署が留置したのは的外れで、芙美子は思想ではない行動の人だった。
おもな文業」の項からうかがえる活発な文筆活動を続けながら、1940年には北満州と朝鮮に行った。1941年には、「ついのすみか」となった自宅を下落合に新築し、飛行機で満州国境を慰問した。『放浪記』『泣虫小僧』などが発売禁止処分を受けた。日米交渉が難航していた。
太平洋戦争前期の1942年10月から翌年5月まで、陸軍報道部報道班員としてシンガポールジャワボルネオに滞在した。戦局が押し詰まって出版界も逼塞し、1944年4月から、綠敏の故郷に近い長野県上林温泉、次いで角間温泉に疎開した。しばらく二階を借りた民家が、林芙美子文学館 になっている。
下落合の自宅は空襲を免れ、1945年(昭和20年)10月に帰京した。自由に書ける時代を喜んだ。用紙事情は厳しかったものの、人は活字に飢えていて、翌1946年から新旧の出版社が動き始めた。
かって原稿の売り込みに苦労して、人気作家になってからも執筆依頼を断らぬ芙美子は、ジャーナリズムに便利だった。書きに書いた。その中に『晩菊』や『浮雲』などの名品もあった。1948年の女流文学者賞は『晩菊』で受賞した。私用や講演や取材の旅も繁くした。1949年から1951年に掛けては、9本の中長編を並行に、新聞・雑誌に連載した。
1951年(昭和26年)、6月26日の夜分、『主婦の友』の連載記事のため料亭を2軒回り、帰宅後に苦しみ、翌27日払暁心臓麻痺で急逝した。『ジャーナリズムに殺された』と、世間は言った。
なお、急逝の直前、6月24日には、NHKラジオの生放送「若い女性-会ってみたい人の頁」にゲスト出演し、女子大生数人に対し質疑応答をおこなっている。この中で芙美子本人が「すでに晩年であると思い、むだな球は投げない」とも語っていた。この放送時の一部が当時の番組広報用として映像保存されており、NHKアーカイブスのサイト「NHK名作選-若い女性」で動画公開されている。(外部リンク参照)放送音声は録音保存され、直近では2016年1月26日にNHK第1ラジオで放送された。
7月1日、自宅で告別式が執り行われた。近在の市民が大勢参列した。葬儀委員長の川端康成〔芙美子は戦後間もなく1945年9月8日に康成宛に手紙を出していて「これから嘘を云はない/いゝものがかけるのハ/うれしいです それだけです/それだけでも 生きていたいです」と書いていた。〕は、『故人は、文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、後二、三時間もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたいと思います』と弔辞の中で述べたという〔新潮日本文学アルバム34、(1986)p.73〕。
『純徳院芙蓉清美大姉』。萬昌院功運寺に埋葬された。享年47。生前、色紙などに好んで、『花の命は短くて苦しきことのみ多かりき』と書いた。
1943年に新生児を貰い受けて養子にした泰は、1959年、事故死した。芙美子を支え続けた夫緑敏は、彼女の文業の整理に長く協力して、1989年物故した。
旧宅が新宿区立林芙美子記念館になっている。
2010年2月、桐野夏生が評伝小説『ナニカアル』を上梓している〔桐野夏生『ナニカアル』新潮社、2010年2月、ISBN 978-4104667031 新潮社のキャッチフレーズは「林芙美子の秘められた愛を描いた」。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「林芙美子」の詳細全文を読む




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