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松平保男 : ミニ英和和英辞書
松平保男[まつだいら もりお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm
: [ほ]
  1. (n,vs) guarantee 
: [おとこ]
 【名詞】 1. man 

松平保男 : ウィキペディア日本語版
松平保男[まつだいら もりお]

松平 保男(まつだいら もりお、1878年明治11年)12月6日 - 1944年昭和19年1月19日)は、会津松平家の12代目当主で雍仁親王妃勢津子の養父。日本海軍軍人として日本海海戦に参戦し、最終階級は海軍少将〔。また貴族院議員を務めた政治家でもある〔。会津会総裁、稚松会総裁。位階勲等功級爵位は、正三位勲二等功五級子爵『官報』 第5105号 1944年1月22日 「貴族院 議員薨去及弔辞」 〕。霊号は海誠霊神。
==生涯==

===経歴===
会津藩主・松平容保の七男。生母は容保の側室・佐久、妻は駿河国沼津藩主・水野忠敬の娘進子。1900年(明治33年)12月、海軍兵学校28期)を卒業。1902年(明治35年)1月、海軍少尉に任官し横須賀水雷団第1水雷艇隊付となり、日露戦争に出征。1905年(明治38年)1月、海軍大尉に昇進し「鎮遠分隊長として日本海海戦に参戦した。1910年(明治43年)6月、長兄の松平容大の死去に伴い、子女がおらず後継者がいなかった容大の子爵位を継承。

兵科将校としての専門は砲術で砲術長や海軍砲術学校教官などを務め、1910年(明治43年)12月少佐1916年(大正5年)12月中佐へ進級。戦艦の副長職にあった際、持病であった耳疾が悪化し、一時待命となり治療に専念〔会津会会報第14号〕。軽快後海軍省出仕として復帰した。1920年(大正9年)12月大佐に進級。戦艦「伊吹艦長、兼「摂津」艦長、呉鎮守府付(簡閲点呼執行官)、横須賀海兵団長を歴任。1925年(大正14年)12月1日、海軍少将に昇進し、同月15日、予備役に編入された。1927年(昭和2年)7月から死去まで貴族院子爵議員となり、研究会に所属した。
兄・恒雄の娘・勢津子(節子)と秩父宮雍仁親王の婚約の際、恒雄は平民籍であったため、勢津子は爵位を継いでいた保男の養女となる。1928年(昭和3年)9月に行われた婚儀では、自邸から勢津子を送り出している。
日ごろ頑健であったが、その死は発病後間もない急逝であった。東京での葬儀に際し、兵学校同期生の永野修身が葬儀委員長、左近司政三が葬儀委員となり、旧臣の子孫柴五郎三淵忠彦松江春次らが役員に名を連ねている〔会津史談会報第24号〕。なお、旧領若松市においても葬儀が行われた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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