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東洋のシンドラー : ミニ英和和英辞書
東洋のシンドラー[とうよう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
東洋 : [とうよう]
 【名詞】 1. Orient 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

東洋のシンドラー ( リダイレクト:杉原千畝 ) : ウィキペディア日本語版
杉原千畝[すぎはら ちうね]

杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年明治33年)1月1日 - 1986年昭和61年)7月31日)とは、日本官僚外交官である。
第二次世界大戦中、リトアニアカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して〔「千畝手記」、『決断・命のビザ』p.288.〕、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くが、ユダヤ系であった〔千畝の発給したビザによって生き延びた難民たちの子孫は、今日25万人にも及ぶという。cf. 千畝のレリーフ 八百津町に贈呈 早大OB (『読売新聞』2012年3月13日付)〕。「日本のシンドラー」〔シンドラーのユダヤ人救出の動機は、「自らが助かるため」であり、また工場労働者としてユダヤ人を使役して利益を得ていたこともあり、外務省を失職した千畝の後半生が不遇であったことを多くの日本人が知っているだけに、「日本のシンドラー」という海外での便宜的呼称は、日本国内では概して不評である。cf.『杉原千畝の悲劇』p.31. ちなみに、ホロコーストからユダヤ人を救った者に「諸国民の中の正義の人」賞を授与するヤド・ヴァシェム委員会は、その授与の条件として、自己の生命に危険があったことと、実利的対価を受けなかったことに関して綿密な調査が行われる。戦後外務省を追われた千畝の一家は貧窮を極め、「電球売りの訪問販売」までして糊口をしのいだ。cf.『真相・杉原ビザ』p.35.〕などと呼ばれることがある。
早稲田大学高等師範部英語(教育学部英語英文学科)科予科中退、日露協会学校特修科修了。
== 生涯 ==

=== 外交官になるまで ===
1900年(明治33年)1月1日、岐阜県加茂郡八百津町に生まれる〔番地は八百津町786。〕。「千畝」という名前は、人名としては極めてユニークな名前だが、税務署の職員だった父の赴任地・武儀郡では千枚田や棚田を意味する「千畝」という地名が実際に存在し、杉原の故郷付近の景観から連想した命名であろうというのが一般的見解である〔cf.『真相・杉原ビザ』p.131. 岐阜県八百津の棚田は、日本の「棚田百選」にも選ばれる佳境として知られている。千畝と「棚田」に関しては、cf. 中島峰広「早稲田が生んだ二人の偉人 杉原千畝と中村十作 」(ロシア・CIS・東欧地域研究会)。なお、八百津は千畝の出生地だが、父親の転勤のため、一家は八百津に住んだことはない。〕。千畝の家系は、元々は士族の流れをくむ「岩井」姓だったが、絶家となった名門・杉原清家を再興するために、父の代から杉原姓に変わったという。
1912年(明治45年)、古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)を全甲(現在の「オール5」)の成績で卒業後、作家の江戸川乱歩と入れ違いに旧制愛知県立第五中学(現・愛知県立瑞陵高等学校)に入学〔瑞陵会(愛知五中、瑞陵高校などの同窓会)のホームページ 〕。同校卒業後、当時日本統治下の朝鮮京城に赴任していた父は、千畝が京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)に進学して医師になることを望んでいた。千畝の甥にあたる杉原直樹によれば、千畝の父の名は、初め「三五郎」(みつごろう)であったが、自分の命を救ってくれた杉原纐纈(こうけつ)という医師の名前から「好水」(こうすい)という音韻の類似した名前に改名し、これを「よしみ」と読んだという。父・好水が医師という職業を千畝に強く薦めたのにはこうした背景がある〔杉原直樹の講演「千畝・伯父について」(『華の樹』月例会、2010年6月14日)による。〕。
しかし、医師になるのが嫌だった千畝は、京城医専の試験では「白紙答案を提出」〔『自由への逃走』p.107.〕して「弁当だけ食べて帰宅」〔「杉原手記」、『決断・命のビザ』p.289.〕した。当初、英語を学び「英語の教師になるつもりだった」〔『自由への逃走』p.107.〕千畝は、父の意に反して、1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。「ペンの先に小さなインク壺を紐で下げて、耳にはさんで」登校していた逸話が残る。千畝自身の説明では、「破れた紋付羽織にノート二三冊を懐にねじ込んで、ペンを帽子に挟んで豪傑然と肩で風を切って歩くのが何より愉快」〔研究社『受驗と學生』大正9年4月号、『真相・杉原ビザ』p.392.〕と多少修正されるが、バンカラな校風で知られた昔の早稲田大学でも珍しい奇天烈な格好で通学していた。独特のペン携帯の流儀から、学友に「変わった人間」(ドイツ語で“”)と笑われても、「これならどこででも書くことができる。合理的だよ」と平然としていたという。しかし、実際は授業中ほとんどノートをとらず、講義内容をすべて暗記していた。
父の意に反した進学だったので、仕送りもなくたちまち千畝は生活苦に陥った。そこで早朝の牛乳配達のアルバイトを始めたが、それで学費と生活費をまかなうことはできなかった〔『自由への逃走』 p.107.〕。ある日、千畝は図書館で偶然目にした地方紙の掲示(大正8年5月23日付の「官報」第2039号)により、外務省留学生試験の存在を知る。受験資格は旧制中学卒業以上の満18歳から25歳の者であったが、研究社の受験雑誌『受驗と學生』(大正9年4月号)に掲載された千畝自身の受験体験記によると、法学・経済・国際法から外国語二ヵ国語という具合に旧制中学の学修内容とはかけ離れたものであり、実際は千畝のような大学在籍者や旧制高校修了者以外の合格は難しいものであった。千畝は大学の図書館にこもり、連日「ロンドンタイムズデイリーメールの両紙を初め、米国発行の数雑誌を片端から全速力で閲覧」〔『真相・杉原ビザ』p.395.〕するなど猛勉強の末、「日支両国の将来」に関する論述や「英国下院に於ける外務次官ハームウォーズ紙の独軍撤退に関する演説」〔「外務次官」の演説を報じた当時の新聞王ハームウォーズによる「紙」面の意。〕の英文和訳等の難問を制して合格〔「それから“Under secretary of State”を具合良よく訳せない人もあったらしい。副外務卿、副外務次官、下外務大臣とやった人もあった様に聞いたが、恐らく日本の下五位式の応用であろう。こんなものは、日々の新聞を少し注意して読めば、其の国々に適した邦語が施せる道理である」と、千畝は余裕のコメントを寄せており、若き日の千畝の猛勉強と矜恃を知るユーモラスな資料となっている。この長文の受験体験記は「雪のハルビンより」と題され、研究社の許諾を得て、『真相・杉原ビザ』(pp.388-414) に転載されている。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「杉原千畝」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Chiune Sugihara 」があります。




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