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本多知恵子 : ミニ英和和英辞書
本多知恵子[ほんだ ちえこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [た]
  1. (n,pref) multi- 
知恵 : [ちえ]
 【名詞】 1. wisdom 2. wit 3. sagacity 4. sense 5. intelligence 6. advice 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

本多知恵子 : ウィキペディア日本語版
本多知恵子[ほんだ ちえこ]

本多 知恵子(ほんだ ちえこ、1963年3月28日 - 2013年2月18日)は、日本声優女優ナレーターである。
出身地については、思春期を過ごした長野県とされる事があるが、出生から幼稚園までを過ごした東京都とするプロフィールもある〔『こだわり声優事典'97』徳間書店、1997年、pp.126-127〕〔「VOICE CHIEKO HONDA」『B-CLUBスペシャル がルフォース地球章』バンダイ、1991年、p.43〕〔「ZOOM UP 本多知恵子」『コミックガンマ』1993年NO.8(OCT,NOV)、竹書房〕〔「ちゃきちゃき道場 GUEST 本多知恵子」『MEGU』1996年4月号、pp.200-201〕〔「CAST」『サイレントメビウス2パンフレット』〕〔「HEROINE INTERVIEW The Ripple」『グリフォン』1993年No.1、pp.95-98〕。
血液型はA型。
== 来歴 ==
1963年(昭和38年)3月28日(木)に東京都で一人娘として出生。祖父が知恵子と命名した〔本多知恵子「自叙伝」『CHOKI!!LAND―豪華本―』大沢事務所内CHOKI!!ファンクラブ、1987年、pp.18-22〕。その後、埼玉県川越市で幼稚園時代と小学生時代を過ごす〔。両親の離婚により小学5年生から母親の実家である長野県に引っ越し、長野市立若槻小学校へ転校。以後、母子家庭で育つ〔〔『Future Land』ユーメックス、1990年、pp.19-23。本多知恵子インタビュー。〕。 中学時代はテレビアニメ『海のトリトン』や『機動戦士ガンダム』に親しむ生活を送っていたが、その当時は自分で演技がしたいという考えはなく、軟式テニス部を経てコーラス部に所属していた。
当時女子校だった長野市立皐月高等学校(現長野市立長野高等学校)へ進学したが、未熟児として生まれて、少女時代は喘息持ちで体が弱かったと母子家庭であることから、志望していたジャーナリストへの進路を反対され、目標を見失って登校拒否になった。これを心配した同級生の誘いで3年生の文化祭でミュージカルに参加。『11ぴきのねこ』のにゃん蔵を演じてアドリブが受けた快感から、これをきっかけに俳優を志すようになる〔〔〔「CHARACTER VOICE INTERVIEW 本多知恵子」『月刊ニュータイプ』1986年3月号〕。さらに『あしたのジョー』の再放送で声優という職業を意識し出すようになり〔「人気声優にがぶりより! 第8回 本多知恵子さん」『アニメディア』1988年2月号、p.94〕、また、当時深夜ラジオが流行していたことからラジオのDJをも目指して〔〔「菊池通隆のサイレントボイス ゲスト本多知恵子」『コミックコンプ』1992年11月号〕〔本多知恵子、松井菜桜子、川村万梨阿「なかよし三人娘のオトメチック座談会」『月刊OUT』1991年6月号、pp.44-49〕、高校を卒業した1981年にテアトル・エコー付属養成所と俳協付属養成所を受験し、俳協付属養成所に11期生として合格。長野県から上京しサッポロライオンに就職。銀座ビヤホールに勤務し、夜には養成所で演技の勉強をするという日々を送る〔勝田久「声優クローズあっぷ 本多知恵子(俳協)の巻」『ジ・アニメ』1983年10月号、p.161〕。養成所同期生には室井深雪などがいた。
半年に1度の進級試験を経て〔「ホット!!ザ・ボイス 本多知恵子さん」『アニメディア』1987年3月号、p.105〕2年後の1983年3月、養成所の卒業公演での演技が評価され、東京俳優生活協同組合(俳協)の正式所属となる。同時にマネージャーの薦めで4月に受けたテレビアニメ『プラレス3四郎』のオーディションに合格し、1983年6月に素形真知子役でデビューを果たした〔。

1984年にはテレビアニメ『重戦機エルガイム』でヒロインの1人ファンネリア・アム役を獲得。アムがアニメ雑誌の人気投票で票を集めるキャラクターだったことで、自身もアニメファンから存在が認知されるようになった〔「INTERVIEW with CHIEKO HONDA 本多知恵子」『重戦機エルガイム大全』大久保一光&バッドテイスト編、双葉社、2003年、pp.165-〕。さらに1986年放映開始の『機動戦士ガンダムΖΖ』で演じたエルピー・プルは、アニメグランプリの女性キャラクター部門、日本アニメ大賞のファン大賞女性キャラクター部門を受賞するなど高い人気を得て、人気声優の一員となった〔。1987年にはOVA『エルフ・17』で主役を演じた。
デビュー当初は俳協養成所講師だった演出家の手塚敏夫が主宰する劇団「-劇舎(SHIBAIYA)-燐」にも在籍し、声優業と並行して舞台女優としても活動していた〔「ヒーロー&ヒロイン対談 平松広和+本多知恵子」『マイアニメ』1984年9月号、pp.30-31〕。しかし稽古に出られない役者には役を与えない劇団の運営方針でどちらも中途半端となり、公演の音響を手伝うなど裏方として舞台と関わりを保とうとしたが、最終的に両立の難しさから、1985年のステップ公演「うちゅうじん」を最後に舞台活動を断念、以後は声優としての活動を中心とした〔。
1986年から1988年にかけては、テレビアニメ『昭和アホ草紙あかぬけ一番!』(1985年)で共演した井上和彦小杉十郎太荒川美奈子の4人でCHOKI!!(ちょき)というグループを結成〔「グループ名"チョキ"に決定!!」『アニメディア』1986年5月号、p.104〕〔「『あかぬけ一番!』のレギュラー陣が勢ぜろいで初コンサート!」『アニメージュ』1986年6月号、p.178〕。ライブハウスでコントと歌のライブ活動を行った〔『アニメディア』1986年5月号、1986年10月号〕〔「VOICE FLASH! 歌ありコントあり瞬間芸ありのCHOKIおもしろライブ!!」『アニメージュ』1987年6月号、p.96〕〔「イベント・フラッシュ CHOKI!!おもしろライブ」『アニメディア』1988年1月号、p.88〕〔「イベントフラッシュ CHOKI!!見おさめライブ」『アニメディア』1988年10月号、p.88〕。
1987年4月からはFM東京系のラジオ『気分はハートビート』で宮原学出口雅之とともにパーソナリティを務め、ラジオのDJをしたいという当初の夢を叶えた。
その後、自分から行動できるように成長したいと、1988年もしくは1989年俳協を離れ、フリーとなる〔〔「アニメ発見伝 ボイス探偵団」『アニメディア』1991年12月号、p.115〕。
明るい役が多く〔可愛い女の子の役を得意としてきたが、1989年から始まった『魔法使いサリー』のカブではレギュラーとしては初めて男の子役を演じた〔〔。1991年のPCエンジン用シミュレーションRPG『レディファントム』のジェニファー・シルキス役でゲームでは初の主演、同年4月にから『キテレツ大百科』の野々花みよ子(みよちゃん)役を荘真由美から引き継いで〔、1996年6月末まで5年弱に渡って演じ、代表作となった〔〔〔声優の本多知恵子さん死去 時事通信 2013年2月23日〕。
1992年2月放映開始の『花の魔法使いマリーベル』のマリーベル・フォン・デカッセ役で、テレビアニメでは初の主役を演じ〔、劇場版では主題歌の歌唱も担当した。
1998年にデビュー15周年を迎え、同じくデビュー15周年の川村万梨阿と15周年を記念したライブ「MARIA&CHIEKO ANIMATION HIT PARADE」を開催〔声優・川村万梨阿&本多知恵子の強力コンビ『マリーチェ』が帰って来る!爆裂ライブ「アニメーション・ヒット・パレード」2009年版が開催決定!! とれたて!ほびーちゃんねる(ホビージャパン) 2008年12月15日〕。
20年近くにフリーで活動していたが、2008年2月からマックミックに在籍。2009年1月より3月末まで13回にわたって「みっくすぱれーど?-a’la carte For you -」で自身初のインターネットラジオのパーソナリティを務めた。デビュー25周年の2009年に再び川村万梨阿と「MARIA&CHIEKO ANIMATION HIT PARADE'09 <RETURNS>」を開催した〔。マックミックは2010年5月まで在籍し、6月より再びフリーに。
2009年頃にはデジタルアーツ東京の声優学科講師を務めていた〔声優|専門学校|デジタルアーツ東京 デジタルアーツ東京公式サイト内 (InternetArchiveのキャッシュ)〕。
2011年8月よりアメーバブログブログを開始〔はじめまして 本多知恵子オフィシャルブログ 2011年8月24日〕。
2012年11月1日から青二プロダクションに所属した。
2013年2月18日(月)、多発性がんにより死去〔。がんが発見された時点で既に手遅れで余命宣告を受けていたという。しかし最後まで仕事を続けたいという本人の意向で〔ラジオ関西林原めぐみのHeartful Station』2013年3月2日放送〕、病気のことはごく近い関係者のみ明かし、2013年に入って体調を崩して仕事のペースを落とすまで、普段と同じく仕事を続けていた。最後の仕事は1月末収録のテレビ番組のナレーション〔声優・本多知恵子さん、49歳がんに死す スポーツ報知 2013年2月24日〕。本人の希望により〔、近親者のみでの葬儀・告別式を2月21日に終え、2月22日夜になって所属事務所公式サイトより訃報が発表された〔。49歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「本多知恵子」の詳細全文を読む




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