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木下弘人 : ミニ英和和英辞書
木下弘人[きした ひろと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [した, もと]
 (adv) under (esp. influence or guidance)
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1

木下弘人 : ウィキペディア日本語版
木下弘人[きした ひろと]
木下 弘人(きした ひろと、1911年2月16日 - 2005年4月24日)は日本の牧師教会の指導者。
== 生涯 ==

*1911(明治44)年2月16日 大野郡白川村木下甚右ヱ門、みせを両親として生まれた。父の事業の失敗で5歳のころ高山市に移る。和菓子の配達などで傾く家計を助けた。
*1927年3月 高山西小学校高等科第二学年卒業後、一家に学資なく斐太中学校雇員となった。
*1928年9月 賀川豊彦河辺貞吉の説教を通して入信を決意、眞嶋慶三郎から高山教会で受洗。本願寺派の熱心な一家のため、迫害が起こり人目を忍び家の窓から教会へ通った。玄関からは到底教会に行けない状況であった。入信を母に告げると仏壇の前で「一家の恥、自決しなさい」と短刀を渡される。しかし、その母も後年入信する。やがて独学で尋常小学校准教員となり、1929年11月には正教員資格を取得した。
*1930年3月 献身のため辞任。上京後直に神学校入学のため、先ず神田区正則英語学校英語科に入学した。
*1931年4月 ミッションの指示により日本神学校に入学した。
*1932年12月 結核のため休学し、静養を兼ねて伊豆方面で伝道開始。
*1934年 試験を受けて伝道師となり日本同盟基督協会下田教会に赴任。
*1937年4月 神学校に復帰した。
*1940年10月 神学校在学中に杉本光平の後任として日本同盟基督協会千葉教会(後の日本基督教団千葉通町教会(日本基督教団西千葉教会 ))に赴任。1941年3月に日本神学校卒業。
*1941年3月 椎名喜巳子と結婚し、二男一女をもうけた。
*1942年11月 正教師試験合格、翌年1月には認可された。
*1945年 千葉通町教会は空襲で焼失、敗戦後はその復興に携わった。
*1958年11月 千葉通町教会は場所を移転し、西千葉教会 として再出発した。
*1961年12月 ジャーマン・ミッドナイト・ミッション望みの門学園創立に協力。
*1962年 松田政一の後任として日本同盟基督教団中野教会へ赴任。後に同盟教団副議長となる。
*1965年 MBKの招聘と、ドイツ教会訪問、ハンブルク大学へ留学のため一年間渡欧。 
*1970年4月 ジャーマン・ミッドナイト・ミッション宣教師ドーラ・ムンディンガーと結婚
*1976年 中野教会辞任。名誉牧師となる。本格的に千葉県富津市で老人ホームの経営に携わると共に富津教会へ赴任。同盟基督教団副理事長を辞任。その後渡米し戦前のSAM資料を収集。
*1977年 フレデリック・フランソンの生涯「燃えて輝く光」を翻訳出版。
*1994年 千葉キリスト教会を創立。
*1995年 富津教会を辞し、名誉牧師となる。
*2001年 望みの門を退職。
*2005年4月24日 千葉県富津市の自宅で召天。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「木下弘人」の詳細全文を読む




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