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有吉佐和子 : ミニ英和和英辞書
有吉佐和子[ありよし さわこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [う, ゆう]
  1. (n,vs) possession 
: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

有吉佐和子 : ウィキペディア日本語版
有吉佐和子[ありよし さわこ]

有吉 佐和子(ありよし さわこ、1931年昭和6年)1月20日 - 1984年(昭和59年)8月30日)は、日本小説家劇作家演出家和歌山県和歌山市出身。日本の歴史や古典芸能から現代の社会問題まで広いテーマをカバーし、読者を惹きこむ多くのベストセラー小説を発表した。カトリック教徒で、洗礼名はマリア=マグダレーナといった。代表作は『紀ノ川』、『華岡青洲の妻』、『恍惚の人』など。娘にエッセイストの有吉玉青がいる。正確には「吉」の字は下が長いのだが、小説を書いていた頃には活字がなかった〔有吉玉青『ソボちゃん』(平凡社2014年)。〕。
== 経歴 ==
長州藩有吉熊次郎は曽祖父にあたる。
佐和子の母・秋津は明治37年(1904年)に和歌山の庄屋の家に生まれ、旧姓は木本といい、父親は政治家だった。たいそうな大女で結婚条件は自分より背が高いことだった。こうして横浜正金銀行に勤めていた180cmの東男・有吉眞次に嫁ぎ、お手伝いを連れて上京した。佐和子の身長は165cmあった〔有吉玉青『ソボちゃん』(平凡社2014年)。〕。横浜正金銀行勤務の父の赴任に伴い、小学校時代を旧オランダ領東インドバタヴィアおよびスラバヤで過ごした。
1941年に帰国後、東京市立第四高女(現・都立竹台高校)から疎開先の和歌山高女(現・和歌山県立桐蔭高校)へ。その後、光塩高女を経て、府立第五高女(現・都立富士高校)卒業。東京女子大学英文学科に入学したが休学後1952年同短期大学部英語学科卒業。大蔵省外郭団体の職員を経て舞踊家吾妻徳穂の秘書となる。
大学在学中から演劇評論家を志望し、雑誌『演劇界』嘱託となる。同人誌『白痴群』、第15次『新思潮』に参加。1956年に『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり一躍文壇デビューを果たした。初期には主として日本の古典芸能を題材とした短編が多いが1959年、自らの家系をモデルとした長編『紀ノ川』で小説家としての地位を確立した。
1962年神彰(興行師。有吉との離婚後、居酒屋チェーン「北の家族」経営者となる)と結婚。長女として有吉玉青をもうけるが神の事業の失敗により1964年離婚した。1970年代に入ると代表作となる『恍惚の人』や『複合汚染』が大きな反響を呼び、いわゆる「社会派」的イメージが定着した。その流れの中で、第10期中央教育審議会委員に任命されたほか、参院選全国区に出馬した市川房枝の応援や、「四畳半襖の下張」裁判の弁護側証人として東京地裁で証言するなどの社会的活動も行った。
また有吉はしばしば国内外へ取材旅行に出かけ1959年から1960年にかけてロックフェラー財団の奨学金を得てニューヨーク州サラ・ローレンス大学に9か月間留学、1970年 - 1971年にはハワイ大学で半年間「江戸後期の戯曲文学」を講義している。特に中国との縁が深く(後述)、1961年には亀井勝一郎らと国交回復前の中華人民共和国を訪問し、以後たびたび招待された。1965年には天主教(中国におけるカトリックを指す)調査のため半年滞在し〔中国天主教--1965年の調査より 〕、1978年には『有吉佐和子の中国レポート』執筆のため人民公社に入っている。
この他1968年には友人の文化人類学者畑中幸子が調査中だったニューギニア山中の村を訪れて『女二人のニューギニア』という爆笑エッセイを書いた。しかし、帰国後にマラリアに罹った。
1984年8月30日未明、急性心不全樋口毅宏、「「笑っていいとも!」と有吉佐和子、三十年目の真実 」『新潮45』2014年1月号、新潮社、2014年1月18日閲覧。〕〔山田風太郎(『人間臨終図巻I』徳間書店、初版1986年、1996年再版、P304)と関川夏央(「サーモスタットのない人生」角川ソフィア文庫版、P36)は死因について疑問を呈している。主治医の村嶋英世(現、医療法人ファミリー会村島医院院長)は取材に応じて病死としている〕のため東京都都杉並区内の自宅で死去した。53歳の若さだった。東京都監察医務院行政解剖され、「病死」と断定され、警察も「自殺などの事件性はないと断定」した。病名も「心機能不全による病死と断定」したことが翌日の新聞で報じられたが、「それでも、無責任な記事が出ます」という。祖父の眠る墓に入ったがただ一人キリスト教徒だったので、墓石の戒名のところに「マリア・マグダレナ」と洗礼名を刻むことになった〔有吉玉青『ソボちゃん』(平凡社2014年)。〕。
有吉の死後、妙法寺東京都杉並区堀ノ内)に『有吉佐和子の碑』が建立され、命日の8月30日に『有吉忌』と題する追善法要が執り行われている〔 広報すぎなみ(2004年8月21日号/No.1689) 7頁『散歩道』有吉玉青〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「有吉佐和子」の詳細全文を読む




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