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智泉 : ウィキペディア日本語版
智泉[ちせん]
智泉(ちせん、延暦8年2月14日789年3月15日)? - 天長2年2月14日825年3月25日)?〔生没年月日は近世末期の『弘法大師弟子譜』の説で、最も一般的ではあるものの、信憑性は疑問。本来、生没年未詳とすべきか。なお、『弘法大師弟子伝』は生没月日を5月14日としている。〕)は、平安時代前期の真言宗讃岐の人。俗姓菅原氏(一説に阿刀氏)。母は空海弘法大師)の姉と伝えられる。空海の甥で十大弟子の一人。空海が亡き智泉の供養のため書いた「亡弟子智泉が為の達嚫文」が『性霊集』巻八にある。
== 生涯 ==

*延暦16年(797年)、9歳のとき空海に連れられて故郷を去り、大安寺の勤操に預けられたと伝えられる〔年代・年齢はともかく、『高野雑筆集』所収の書簡に「大安智泉」とあるので、大安寺を本寺として出家得度したことは事実。勤操を空海の師とする伝承は、今日では否定されているが、『性霊集』巻十の「故贈僧正勤操大徳の影の讃」から、空海と浅からぬ関係にあったことは明らかで、勤操に預けられたとしても不思議はない。〕。
*延暦21年(802年)、14歳のとき空海の近士(従者)となったと伝えられる〔「亡弟子智泉が為の達嚫文」によれば、智泉は「入道の長子」、つまり最初の弟子で、「二紀」=24年間にわたり空海に師事したという。没年が天長2年(825年)なら年代的には合致する。〕。
*延暦23年(804年)、16歳のとき受戒と伝えられる〔当時、得度者の年齢は20歳以上と定められており、16歳での受戒は不可能。なお『続日本後紀』承和2年3月21日789年4月22日)条の空海卒伝によれば、空海が得度したのがこの年(前年の延暦22年(805年)とする説も)。〕。
*同年7月、入唐留学僧・空海の乗る遣唐使船が肥前松浦を出発。智泉も侍者として同行したと伝えられる〔「亡弟子智泉が為の達嚫文」によれば、影のように常に空海に付き随い苦楽をともにしてきたとある。空海の私的従者として入唐に同行した可能性も考えられる。〕。
*大同元年(806年)10月、空海が唐から帰国。大宰府に留まる。大同年中に空海から両部灌頂を受けたと伝えられる〔智泉が得度できる20歳になるのは、延暦8年(789年)生説に立てば大同3年(808年)であり、ふつう受戒はその2年ほど後、弘仁元年(810年)になる。正式に僧侶になる前の大同年中の灌頂は考えにくい。ただ、高雄山寺の三綱となる弘仁3年までには灌頂を受けたと考えられる。〕。
*大同4年(809年)7月、嵯峨天皇の勅命により空海が入京、高雄山寺に入る。智泉も随行したと伝えられる。
*弘仁3年11月13日812年12月20日)、最澄から書簡と進物を受け、空海へのとりなしを依頼される〔『伝教大師消息』所収。11月15日12月22日)に高雄山寺で行われた最澄らへ灌頂に関連するもの。この頃すでに智泉が教団内で空海の代理人的地位にあったことがわかる。書簡で最澄は智泉を敬って「法兄」と呼んでいる。〕。12月、空海により高雄山寺の三綱の1人(ほかは杲隣、実恵)に選ばれる。
*弘仁年中、空海に随い高野山に来て東南院(と後に号される伽藍の起源となる草庵)を造り滞在すると伝えられる〔空海が勅許後はじめて高野山入りしたのは弘仁9年(818年)。以来、頻繁に京と高野山を往還する。〕。
*天長2年2月14日825年3月25日)、病により高野山東南院にて没すと伝えられる(延暦8年(789年)生説なら享年37)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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