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日野原重明 : ミニ英和和英辞書
日野原重明[ひのはら しげあき]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
: [の]
 【名詞】 1. field 
野原 : [のはら]
 【名詞】 1. field 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [おも]
  1. (adj-na,n) main 2. principal 3. important

日野原重明 : ウィキペディア日本語版
日野原重明[ひのはら しげあき]

日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年10月4日 - )は、日本の医師医学博士。一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長聖路加国際病院名誉院長上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長などを務める。
京都帝国大学医学部第三内科副手、大日本帝国海軍軍医少尉等を経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授ハーヴァード大学客員教授、国際内科学会会長等を歴任した。日本循環器学会名誉会員となり、勲二等瑞宝章及び文化勲章を受章した。京都帝国大学医学博士、トマス・ジェファーソン大学名誉博士(人文科学)マックマスター大学名誉博士。
== 人物・経歴 ==

*1911年明治44年)山口県山口市湯田にある母の実家で生まれた。
 *父母ともにキリスト教徒で、父はユニオン神学校に留学中だった。帰国後に広島女学院を拡大し、学院長を務めた。日野原は父の影響を受け、7歳で受洗した。
 *9人家族(6人きょうだい)の次男。明治の年号にちなみ、きょうだい全員の名前に「明」の字が入っている。
*1915年に父・日野原善輔HOME|学院史編纂室 HOME|日野原善輔(関西学院事典) 〕が大分メソジスト教会から、神戸中央メソジスト教会(現日本基督教団神戸栄光教会)の牧師に移り神戸に転居する。
*1918年、神戸市立諏訪山小学校(現神戸市立こうべ小学校)に入学する。
*1921年、諏訪山小学校4年のとき急性腎臓炎のため休学する。
 *療養中にアメリカ人宣教師の妻からピアノを習い始める。
*1924年、名門の旧制神戸第一中学校に入学する。
*1924年、神戸第一中学校への入学をやめて、関西学院中学部に入学〔2015年11月14日朝日新聞『be』5面「104歳私の証あるがま’行く『金時さん』が我がものにしたマナー」より。〕。
 *赤面恐怖症克服のため弁論部に入る〔。
*1929年、旧制第三高等学校理科に進学。
 *弁論部と文芸部に入部、詩集や随筆集を作った。
*1930年、父が広島女学院長に就任。
*1932年、京都帝国大学医学部に現役で合格し入学する。
 *学費は教会関係者の寄付を仰いだ。
*1933年、大学学中に結核にかかり休学、父が院長を務める広島女学院の院長館や山口県光市虹ヶ浜で約1年間闘病生活を送った。
 *医学部の内科教授になる夢を断念する。医学をやめて、音楽の道に進もうと考えるが、両親に反対され断念する。
*1934年、京都帝国大学医学部2年に復学。
 *病み上がりで体調が悪く、仕事の楽な精神科医になることを考える。
*1937年昭和12年)に京都帝国大学医学部を卒業し、京都帝国大学医学部三内科副手(無給)に就任(1939年まで)。
 *真下俊一教授の第三内科(循環器内科)に入局。徴兵検査丙種合格。
 *京都帝国大学病院で2年間副手として研修をしたが、学ぶことはなかったと述懐している。
*1938年、北野病院や京都病院(現国立病院機構京都医療センター)で勤務。
*1939年、京都帝国大学医学部大学院博士課程心臓病学専攻)に進学。
 *京都大学YMCA地塩寮に住む。
*1941年昭和16年)に聖路加国際病院の内科医となる。
 *東京は東大閥があるからと、周囲に反対されたのを押し切り、東京で勝負をしたいと考え上京したが聖路加には学閥がなかった。
*1942年に結婚した。
 *同年に、広島女学院院長を定年退職し上京していた父が牧師をしていた田園調布の教会の教会の役員の紹介で教会の日曜学校で教師をしている女性と3ヶ月交際し、結婚。
*1943年京都帝国大学医学博士の学位を取得する。
 *日野原は音楽好きだったため、博士論文は「心音の研究」〔『日本循環器病學』6巻4号,1940(第1報)~6巻11号,1941(第8報)〕。心臓が収縮するとき低音がなることを発見し、アメリカの著名な医学雑誌〔"Systolic gallop rhythm"(American Heart Journal 22巻6号,pp.726-36, 1941)〕に投稿した。
*1945年に志願して大日本帝国海軍軍医少尉に任官。
 *戸塚海軍病院や海軍衛生学校のある横浜市戸塚で訓練を受けるが、急性腎臓炎のため入院となり除隊となった。
*1951年、聖路加国際病院内科医長に就任する。
*1951年、エモリー大学医学部内科に1年間留学し〔2015年9月19日朝日新聞『be』5面「103歳私の証あるがま’行く アメリカ留学時代の極貧生活」より。〕、ポール・ビーソン教授に師事する。
 *メイヨー・クリニックでホリスティック医療に触れる。
*1952年に帰国し、聖路加国際病院院長補佐(研究・教育担当)に就任する(1972年迄)。京都大学医学部第三内科学教授ポストの打診を断った。闘病中の母が脳卒中で死去した。
 *東京看護教育模範学院(現日本赤十字看護大学)講師(1954年迄)、東京文化学園(現新渡戸文化短期大学)講師や医師国家試験試験委員や、医師研修審議会委員も務める。
*1953年に国際基督教大学教授に就任、以後4年間「社会衛生学」などを講じつつ同大学診療所顧問なども務める。
*1957年、石橋湛山首相が脳梗塞で倒れ入院した際、石橋首相の主治医を務めた。
*1958年、バージニア州リッチモンドアズベリー神学校で客員教授を務めていた父が劇症肝炎のためリッチモンド記念病院で死去した。
*1970年、福岡での内科学会への途上によど号ハイジャック事件に遭い、韓国金浦国際空港で解放される。
 *同乗していた吉利和(東京大学医学部教授、犯人に教え子がいた)と、乗客の健康診断をした。
 *事件に遭ったのを契機に自己の内科医としての名声を追求する生き方をやめた。
*1970年、学校法人津田塾大学評議員に就任(現在に至る)。
*1970年、文部省医学視学委員となる。
*1971年、聖路加看護大学副学長及び教授に就任する。
*1973年、財団法人設立、同理事長就任(現在に至る)。
*1974年、聖路加国際病院を定年退職。
 *死去した橋本寛敏前院長の後任の院長に推されたが、理事長を務めるライフ・プランニング・センターが笹川良一から援助を受けていることを問題視され、同理事長を退任するようにいわれたため院長就任を断った。
*1974年、聖路加看護大学学長(第4代)に就任(1998年迄)
 *聖路加看護大学に大学院を開設、日本で初めて看護大学に博士課程を設置した。
*1975年、文部省看護視学委員、旭川医科大学参与。
*1977年、佐賀医科大学(現佐賀大学医学部)参与。
*1978年、厚生省医療関係者審議会臨床研修部会会長(1981年迄)。
*1980年、聖路加国際病院理事に就任。
*1982年、自治医科大学客員教授(1998年迄)。 日本医師会最高優功賞を受賞。
*1984年、国際内科学会会長(東洋人初、1986年迄)。
*1985年、フィラデルフィア医師会日米医学科化学者賞を受賞。
*1986年、日本バイオミュージック研究会(現・日本音楽療法学会)初代会長を務める。アメリカ内科学会名誉フェロー。
*1987年、国際健診学会会長(1990年迄)。医療秘書教育全国協議会初代会長。
*1987年、日本総合健診医学会会長(1997年迄)。
*1989年、キリスト教功労者顕彰。社団法人学士会評議員。
*1991年、国際基督教大学評議員(2001年迄)。
*1992年に聖路加国際病院院長に就任(1996年迄)。
 *無給で院長を務めた。
*1992年、ニューヨーク科学アカデミー会員となる。東京都文化賞受受賞。広島女学院維持会顧問に就任する。
*1992年、国際健診学会会長(1994年迄)。株式会社代表取締役(第4代)。
*1993年、勲二等瑞宝章を受章する。
*1995年、全日本音楽療法連盟(現日本音楽療法学会)会長に就任する。
*1996年から財団法人聖路加国際病院理事長に就任、院長を退任し聖路加国際病院名誉院長となる。公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所を設立し、理事長に就任(現在に至る)。
*1998年、聖路加看護大学名誉学長及び名誉教授、東京都名誉市民、トマス・ジェファーソン大学人文科学名誉博士。医療法人名誉理事長。
*1998年、ハーバード大学公衆衛生大学院沖永客員教授。
*1999年文化功労者に選ばれる。
*1999年、中央区名誉区民となる。全日本学士会アカデミア賞を受賞。
*2000年、財団法人笹川記念保健協力財団会長(現在に至る)。日本パブリック・リレーションズ協会日本PR大賞社会部門賞受賞。財団法人ライフ・プランニング・センターに新老人の会を設立、会長に就任(現在に至る)。
*2001年、日本音楽療法学会初代理事長(現在に至る)。株式会社ウェル・ビーイング顧問。
*2002年、マックマスター大学名誉博士。経済界大賞特別賞を受賞。
*2003年、国立大学法人佐賀大学医学部顧問。朝日新聞社朝日社会福祉賞受賞、亀岡市生涯学習大賞・石田梅岩賞受賞。
*2004年、日本栄養療法推進協議会理事長となる。
*2005年文化勲章を授与された。
*2006年、社団法人日本循環器学会名誉会員、関西学院大学名誉博士、社団法人日本スポーツ吹矢協会最高顧問となる。(スポーツ吹矢を呼気が吸気を促す呼吸運動とし、その健康効果に注目している〔スポーツ吹矢の薦め - 日本スポーツ吹矢協会 2010年5月〕。)
*2007年、日本ユニセフ協会の大使に任命された。有限責任中間法人日本総合健診医学会理事長に就任する。
*2008年、4月から父親が戦中院長を務めた広島女学院大学客員教授を務めた。
*2008年、関西学院初等部教育特別顧問。
 *特別授業などを担当。
*2008年、神戸市神戸大使。地方独立行政法人佐賀県立病院好生館顧問。日本ハンドベル連盟理事長。
*2009年、聖トマス大学日本グリーフケア研究所名誉所長。
*2010年上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長となる。世界宣教東京大会顧問、公益社団法人難病の子どもとその家族へ夢を最高顧問、医療法人名古屋澄心会名古屋ハートセンター顧問に就任、コルチャック功労賞を受賞する。
*2011年、日本禁煙科学会賞を受賞。
*2012年、ティーペック株式会社優秀糖尿病臨床医ネットワークサービス特別顧問となり、第12回日本音楽療法学会学術大会大会長、農林水産省みどりの特別大使を務めた。
*2013年、オーストリアのアルベルト・シュヴァイツァー協会からアルベルト・シュヴァイツァー章受章〔http://www.shinrojin.com/新着情報/〕。
*2014年、5月の半ばに血中に大腸菌があり入院した。4日で回復したものの念の為に検査をしたら大動脈弁狭窄症を発見した。高齢の為に手術は難しく、これを避ける為に移動のみ車椅子を使用している〔2014年6月28日朝日新聞『be』5面「102歳私の証あるがま’行く」より。〕〔yomiDr.『日野原重明の100歳からの人生』「私が車椅子を使うようになるまで」 〕と、2014年6月21日の続きのコラムを差し替えて公言している〔〔2015年8月1日朝日新聞『be』5面「102歳私の証あるがま’行く 車椅子を使い始めて1年」では、病気発表から1年経過、読者から沢山のお見舞いの言葉と自身の考え方に力つけたと言う感想を頂いた事を紙面で記述していた。〕。
*2015年、女子サッカー、日本-イングランドの観戦時に気分を害し聖路加で検査した結果、不整脈の一種である心房細動が発見された〔2015年8月29日朝日新聞『be』5面「103歳私の証あるがま’行く なでしこ観戦中の大ピンチ 下」より。〕。以降は力を込めて応援したくなる試合は生放送ではなく、結果を知ってから録画鑑賞することになった〔。
日野原は日本で最初に人間ドックを開設、早くから予防医学の重要性を説き終末期医療の普及にも尽くすなど、長年にわたって日本の医学の発展に貢献してきた功績が文化功労者と文化勲章の受章理由として挙げられている。従来は「成人病」と呼ばれていた一群の病気の名称を「生活習慣病」に改めたのも彼である〔「成人病に代わる『習慣病』という言葉の提唱と対策」, 『教育医療』, Vol5(1978), No3, 財団法人ライフプランニングセンター, pp1-3〕。
2001年平成13年)12月に出版した著書『生きかた上手』は120万部以上を売り上げた。高齢者の希望の星的存在となっている。2012年現在は聖路加国際病院名誉院長であり、数多くの著書でも知られている。レオ・ブスカーリア作の絵本葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜」のミュージカル化に当たっては、日野原が企画・原案に携わっている。
マスコミへの出演多数。
また日野原は100歳を超えてなおスケジュールは2、3年先まで一杯という多忙な日々を送っている。乗り物でのわずかな移動時間も原稿執筆に使い、日々の睡眠時間は4時間半、週に1度は徹夜をするという生活だったが、96歳にして徹夜をやめ、睡眠を5時間に増やしたという(Be2008年1月5日)。日野原は少なくとも110歳まで現役を続けることを目標にしていると語っている。
2009年7月6日NHKスタジオパークからこんにちはに出演、放送開始から10年以上経過しての初出演にスタジオ内でも好意的に紹介された。100歳を迎えて半年を経過した2012年5月31日に2回目の出演を果たしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「日野原重明」の詳細全文を読む




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