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斎藤帰蝶 : ミニ英和和英辞書
斎藤帰蝶[さいとう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とき]
 【名詞】 1. meals exchanged by parishioners and priests 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [ちょう]
 【名詞】 1. butterfly 

斎藤帰蝶 ( リダイレクト:濃姫 ) : ウィキペディア日本語版
濃姫[のうひめ]

濃姫(のうひめ、天文4年(1535年)〔『美濃国諸旧記』巻之2 (p. 33-64)〕 - 弘治2年9月19日1556年11月1日)? / 慶長17年7月9日1612年8月5日)?)は、戦国時代の女性。織田信長の正室で、斎藤道三の娘。名江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』などから帰蝶(きちょう)とされる。「鷺山殿」 と呼ばれていたとされる〔。
== 生涯 ==
斎藤道三の三女。母は明智光継の娘・小見の方。当時、明智家は東美濃随一の名家であったため小見の方は正室として迎えられ、濃姫は正室唯一の子であったという〔。明智光秀とは従兄妹同士とされる〔但し、光秀の出自や前半生には諸説があり特定されていない。〕。
天文4年(1535年)に生まれ、天文13年(1544年)の加納口の戦いの後、織田家との和睦により信長の許嫁となったとされる〔。美濃方の交渉役は明智光安であり〔、平手政秀の才覚で政略結婚がまとまったという〔『信長公記 首巻』〕。実際に信長に嫁いだ時期は天文18年(1549年)の2月24日1549年3月23日)とされ〔、天文22年(1553年)4月には、織田信長と斎藤道三が正徳寺にて会見を行っている〔。
2人の間には子ができなかったというのが通説であるが、信長の子供は生母不明の者が多く、本当に子がいなかったかどうかは確認できない。『近江國輿地志』には御台出産の記事が存在する。濃姫の最期は正確には不明である。斎藤家の菩提寺常在寺に父・道三の肖像を寄進した後は、歴史から姿を消している。また濃姫の菩提寺は特定されていない。
信長は夫婦別居した部下を叱ったり、羽柴秀吉(豊臣秀吉)夫妻の喧嘩に仲裁に出たりと、家庭における妻の内助の役割を高く評価していた言動が多いものの、実際の自身の妻である濃姫(正室)の史料は極めて乏しく、その実像には謎が多い。そのため歴史家は、父・道三が存命中で生駒氏(吉乃)が嫡男・信忠を生む以前に、
# 殺された。
# 病気で美濃へ返された。
# 病死した。
と推察する者もいるが、斎藤家の菩提寺に名はなく、斎藤家へ帰ったとは考えづらい。『信長公記』には入輿については記述があるが、その後については記述がない。また、その他の史書にも記載が見つかっていない。このため濃姫の最期については様々な推測がなされている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「濃姫」の詳細全文を読む




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