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文法学校 : ミニ英和和英辞書
文法学校[ぶんぽうがく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
文法 : [ぶんぽう]
 【名詞】 1. grammar 
: [ほう]
  1. (n,n-suf) Act (law: the X Act) 
法学 : [ほうがく]
 【名詞】 1. law 2. jurisprudence 
: [がく]
 【名詞】 1. learning 2. scholarship 3. erudition 4. knowledge 
学校 : [がっこう]
 【名詞】 1. school 
: [こう]
  1. (n,n-suf) -school 2. proof

文法学校 ( リダイレクト:グラマースクール ) : ウィキペディア日本語版
グラマースクール[こう]
グラマースクール()は、イギリスなどの英語を話す国の教育史における数個の異なった学校の一つである。現在この学校は中等教育を形成している。文法学校(ぶんぽうがっこう)ともいう。
中世のグラマースクールの当初の目的は、ラテン語を教えることにあった。時を経て、カリキュラムは広がり、初めは古代ギリシャ語や時にヘブライ語、後には英語などの欧州の言語が含まれ、同様に自然科学数学歴史地理学などの科目が含まれることになった。後期ビクトリア時代、グラマースクールは異なる制度を発展させていたスコットランドを除きイギリス全土で中等教育を施すために再編成された。こうしたグラマースクールは、異なった手法で発展させていた英国領で創設されたものでもある。
グラマースクールは1940年代半ばから1960年代後半までイングランドとウェールズで行われ北アイルランドで続く国立の中等教育の3部編成の教育制度の選択肢の一つとなった。1960年代から1970年代の非選択型の総合教育に移行するとともに、グラマースクールによっては殆どが廃止されるか総合教育学校化したとはいえ、私立学校化し授業料を徴収することになった。どちらもこの学校の多くは、名称に「グラマースクール」を残した。イングランドの一部では、3部構成の教育制度を維持し、別の総合学校形式を残しているグラマースクールも数校ある。現在のグラマースクールには16世紀以前にその歴史を辿れる学校がある。
==初期のグラマースクール==
中世以降グラマースクールはラテン語(後に他の古典的な言語)を教える学校であった。''Scolae grammaticales''は14世紀まで広く使われる言葉ではなかったが、こうした学校は古くはカンタベリーのキングズ・スクール(597年創立)やロチェスターのキングズ・スクール(604年)のように6世紀から見られた。
グラマースクールはラテン語(教会の言語)を未来の神父や僧侶に教えるために大聖堂や修道院に付属していた。音楽と韻(礼拝式)、天文学や数学(教会の暦)、法律(管理)などの宗教活動に必要な他の科目は、時に応じて加えられた。
12世紀からの古代の大学の創設とともにトリヴィウムの創設に見られるラテン語と共にグラマースクールはリベラル・アーツ教育の入口となった。生徒は通常14歳からグラマースクールで教育を受け、卒業後は更に教育を受けるために大学や教会を目指した。教会から独立した最初のグラマースクール(ウィンチェスター・カレッジ(1382年)やイートン・カレッジ(1440年))は、大学と密接に関わり、全寮制の学校として文字通り全国的な学校になった。〔
対照的に中世の村落が創設した初期グラマースクールは、ブリッジノースが1503年に創立したブリッジノース・グラマー・スクールである。〔J. F. A. Mason, The Borough of Bridgnorth 1157-1957 (Bridgnorth, 1957), 12, 36〕
16世紀のイングランドの宗教改革で殆どの大聖堂付属の学校は閉鎖され、教会からの分離により新たに創設された学校に置き換わった。〔例えばウェールズで最も古い現存の学校(ブレコンのクライストカレッジ(1541年創立)やバンガーのフリアーススクール(1557年))は、ドミニカの修道院の跡地に創立された。エドワード6世は治世に多くの学校に出資しグラマースクールの重要な出資者になり、ジェームズ1世アーマフのロイヤルスクールを始めとしてアルスターに多くの「ロイヤルスクール」を創立した。理論的にはこうした学校は全ての人に開かれ学費の払えない生徒には学費が免除されることになっていた。しかし、大半の貧しい子供は、子供の労働が経済的に家族を助けた為に入学できなかった。
スコットランドの宗教改革では、グラスゴー大聖堂聖歌学校(1124年創立)やエジンバラ教会グラマースクール(1128年)のような学校は、教会の管理から村落評議会の管理に移り、村落は新たな学校も創設した。
宗教改革後に聖書を学ぶことが重要視されるにつれて、多くの学校は、ギリシャ語と(中には)ヘブライ語を加えた。こうした言語を教えることは、ラテン語とラテン語に流暢な教師の不足による弊害を招来した。
16世紀から17世紀にかけてグラマースクールの設立は、例えばティヴァートンの裕福な商人ピーター・ブランデルが1604年に創立したブランデル・スクールのように貴族、豊かな商人、ギルドの寄付による公共の活動になった。こうした学校の多くは、生き残りをかけて毎年の「創立記念日」の行事で今も創立記念日を祝っている。通常は無料で土地の少年にラテン語(時にギリシャ語)を教える師匠の賃金を払うために寄付を募るために行われている。
日中の教育は、大抵はラテン語の丸暗記であった。流暢に使えるようにするために校長によっては英語を話す生徒を罰するようにしていた。生徒が構文を可能にするには7年かかり、最終学年で翻訳を始めた。学習を終えるまでに偉大なラテン語の作家、劇、修辞学に完全に親しむようになる。理数系の知識や手書きのような知識は、稀に教わったり公証人のような旅する専門家に教わることはあっても無視された。
1755年、サミュエル・ジョンソンは「辞書」でグラマースクールを習うべき言語が文法的に正しく教えられる学校と位置付けた。
しかしこの時期までにこうした言語の需要は大きく減少していた。新たな商業階級は、現代の言語と商業科目を必要としていた。〔18世紀に創立されたグラマースクールの殆どは、算数と英語も教えた。.スコットランドでは村落評議会がカリキュラムを更新し、アバディーングラマースクールのように名前だけは残しながらもここで言うグラマースクールは最早スコットランドには存在しない。.
イングランドでは商業カリキュラムを求める都市の中産階級の圧力は、評議員(新たな学費を請求する)に支援されるが元の寄付により支援されながら校長により存在することも珍しくなかった。稀に1774年のマックルスフィールドグラマースクール法や1788年のボルトングラマースクール法のように特別な法律で環境が変えられることがあった。〔リーズグラマースクールの評議員と校長の間のこうした争いから大法官庁裁判所の有名な事件がおきた。10年後エルドン卿(当時は大法官)は、1805年に「寄付の本質をかように変える権限はなく、ギリシア語とラテン語を除きドイツ語やフランス語、数学などを習う生徒にギリシア語とラテン語を教える目的で意図された学校の需要に応じることはない」と判決した。科目によっては古典的な核に加えることが可能とした妥協案を示したが、この裁定はイングランドを通じてグラマースクールに限定的な先例を与えた。グラマースクールはついに終末を迎えたようであった。〔〔

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「グラマースクール」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Grammar school 」があります。




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