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憲政碑 : ミニ英和和英辞書
憲政碑[けんせい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

憲政 : [けんせい]
 【名詞】 1. constitutional government 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
: [いしぶみ]
 【名詞】 1. stone monument bearing an inscription 

憲政碑 : ウィキペディア日本語版
憲政碑[けんせい]

憲政碑(けんせいひ)は、昭和戦前期に立憲政友会に所属して衆議院議員を務めた胎中楠右衛門(たいなかくすえもん)を発起人として、日本近代の憲政における功労者の慰霊を目的に、神奈川県海老名市上今泉の国指定の史跡秋葉山古墳群第2号墳墳丘上と、東京都台東区西浅草浅草本願寺(現・東本願寺)境内の2か所に建立された碑である。
== 概要 ==

海老名と浅草の2か所の憲政碑建立を主導した胎中楠右衛門は、1876年明治9年)高知県に生まれ、10代半ばから生活の拠点とした神奈川県で自由党に入党し、壮士として自由党で活躍する。胎中は壮士として活躍する中で自由党幹部の星亨の知遇を得て、星の門下となる。星が駐米公使となると、胎中は星の後を追うようにアメリカへ向かい、その後約20年あまりアメリカで生活する。
胎中は星亨門下の先輩である横田千之助の勧めで、1918年大正7年)日本に帰国する。帰国当時の日本は、本格的な政党内閣である原内閣成立直後であり、胎中は横田を政治家として大成させるための手助けをしようと考え、自由党の後身である政友会に入党する。アメリカでの生活が長い胎中は、ワシントン軍縮会議に原首相の特命を受けて参加するなど、当初は裏方として活躍する。その後第二次護憲運動に参加し、その流れもあって総選挙に立候補するようになった。2回の選挙に落選後、1928年昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に当選し、胎中は以後4回衆議院議員に当選する。
しかし衆議院議員となった胎中の前に、10代半ば以降その情熱を傾けてきた政党政治の衰退という現実がのしかかってきた。1932年(昭和7年)5月15日、五・一五事件によって首相、政友会総裁の犬養毅暗殺され、大正末期以降継続してきた政党内閣は中断する。また政党に対する批判も高まっており、政党無用論が唱えられるようになってきた。このような政党政治、そして憲政の危機を見た胎中は、1933年(昭和8年)に、明治以降、憲政の発展に尽力してきた人々の慰霊と顕彰を目的とした憲政功労者慰霊会を設立した。
胎中は憲政功労者慰霊会を設立した1933年(昭和8年)、これまで神奈川県下、三多摩で憲政の発展に尽力してきた人々の慰霊と顕彰とともに、国民に対して憲政、政党政治についての啓蒙を行い、憲政、政党政治の擁護、発展に貢献することを目的として、神奈川県海老名村上今泉の自邸の瓢箪山上に憲政碑を建立する。海老名の憲政碑の大きさは、高さ310センチメートル、横121センチメートル、厚さ17センチメートル、題字は時の衆議院議長秋田清が揮毫した。
1933年(昭和8年)10月1日、秋田清衆議院議長を始めとした来賓、更には神奈川県下、三多摩の憲政功労者の遺族ら約500名が参加して、海老名村の憲政碑除幕式が行われた。碑の建立者である胎中楠右衛門は挨拶の中で、これまで憲政に貢献してきた人たちの功績を称えるとともに政党政治の危機を憂い、後進が憲政、政党政治の擁護と発展に奮起するように訴えた。また来賓からも胎中の憲政碑建立を称えた上で、これまでの憲政功労者たちの功績を顕彰し、今後も憲政の更なる発展に尽くしていくとの挨拶があった。
しかしその後も政党内閣は復活せず、政党の衰退は続いた。そのような中にあっても胎中は海老名村の憲政碑建立後、毎年憲政功労者の慰霊祭を挙行し、憲政、政党政治の擁護、改革、そして発展を願い、論陣を張り続けていた。かねてから胎中は憲政功労者の慰霊、顕彰は全国レベルで行うべきであると考えていたが、1936年(昭和11年)2月の二・二六事件では、かつて首相、政友会総裁を務めた高橋是清が暗殺されるなど、憲政、政党政治の危機がより深刻化する情勢を見て、胎中は全国の憲政功労者の慰霊、顕彰、更には国民の憲政、政党政治に対する認識を高め、憲政、政党政治の擁護、発展に貢献することを目的とする新たな憲政碑の建立を決意する。
全国の憲政功労者の慰霊、顕彰を目的とした新たな憲政碑は、1875年(明治8年)に第一回地方官会議が行われた浅草本願寺に建立されることとなった。これは地方官会議が憲政、代議制が初めて具体化したものとして、会議が行われた浅草本願寺を「わが国憲政発祥の霊地」と見なしたことに由来している。碑の石材は宮城県雄勝郡稲井村(現宮城県石巻市稲井)産の仙台石(稲井石)で、高さ634センチメートル、横227センチメートル、厚さ42センチメートル、重さは約16.875トンと、海老名の憲政碑の倍以上となる巨石が選ばれ、題字の揮毫は大日本帝国憲法起草者の中で当時唯一存命していた金子堅太郎が行った。しかし碑の裏面に刻む碑文の内容について警視庁からクレームが来て、押し問答のあげくに3文字分削除されることになったため、浅草の憲政碑の碑文には3文字分の欠字がある。
1937年(昭和12年)12月23日、貴族院議長、衆議院議長、民政党、政友会幹部、そして全国の憲政功労者の遺族ら1000名あまりが参加して、浅草本願寺にて憲政碑の除幕式が行われた。4年前の海老名の憲政碑除幕式は政友会関係者が中心であったが、浅草本願寺の憲政碑除幕式は衆議院貴族院、民政党、政友会関係者という、憲政関係者が党派を超えて集まった。挨拶に立った胎中楠右衛門は、憲政の霊地である浅草本願寺に全国の憲政功労者の慰霊、顕彰を目的とした憲政碑の建立が実現した喜びを語るとともに、式典参加者に配布したパンフレットの中で、改めて憲政、政党政治の擁護を訴え、憲政碑を建立した目的は単に憲政功労者に対する表彰を行うばかりではなく、国民の憲政と政治家に対する認識を深め、良き政治家の出現と良き政党の発展と活躍をもたらし、憲政の発展を目指すことにあると強調した。そして来賓からはこれまで憲政に尽くしてきた人々に対する功績を称え、憲政の更なる発展を願うとの内容の祝辞が述べられ、近衛文麿首相らから寄せられた祝辞の中でも同様の内容が述べられた。式典の最後には浅草本願寺本堂で第一回憲政功労者慰霊追悼法会が行われた。
憲政碑除幕式の後、これまで海老名の胎中楠右衛門宅にあった憲政功労者慰霊会は浅草本願寺に移転し、憲政功労者が亡くなった場合、衆議院事務局庶務課に通知するように求めた。そして1939年(昭和14年)、1940年(昭和15年)と民政党、政友会合同で憲政功労者の年次合祀法要が行われたが、1940年(昭和15年)には全政党が解散したため、その後は政党主宰による年次合祀法要は行われなくなった。胎中楠右衛門は近衛文麿主導の新体制運動に抵抗するなど憲政、政党政治擁護の姿勢を崩そうとはしなかったが、政党解散後は抵抗を続けられなくなった。1941年(昭和16年)、衆議院の主催で憲政功労者慰霊祭が執り行われたが、その後は中断を余儀なくされた。結局、憲政功労者に対する慰霊、顕彰とともに、国民の憲政と政治家に対する認識を深め、憲政と政党政治の擁護、発展を目指すという憲政碑に込めた胎中楠右衛門の思いが実ることはなかった。
しかし憲政碑そのものは戦災などを免れ、建立された神奈川県海老名市上今泉の国指定の史跡秋葉山古墳群第2号墳墳丘上と、東京都台東区西浅草の東本願寺境内に現存している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「憲政碑」の詳細全文を読む




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